前述したように、寛政四年(一七九二)のロシア遣日使節アダム・ラクスマンの東蝦夷地への来航以来、ロシア人の千島列島滞在および交易の情報が幕府に知られるにおよんでからというもの、千島方面のアイヌの問題がクローズアップされていた。寛政十年、幕府は連年異国船が蝦夷地に来舶するようになり、北辺の不安が高まってきたため、東西蝦夷地の調査を行ったことは前述した。この時近藤重蔵は、間宮林蔵、木村謙次、村上島之丞らを配下にエトロフ島にまでいたっている。東蝦夷地が仮直轄された翌年の寛政十二年、近藤重蔵はエトロフ島開発に着手し、アイヌの「撫育」と新規漁場開発を行った。
近藤重蔵が、西蝦夷地のことに関わるのは、文化元年十月六日付で「西蝦夷地上地処分方幷取締法」を建議したのにはじまる。やがて同四年には、西蝦夷地も直轄下におかれ、同年八月近藤重蔵をはじめ、鷹野方山田忠兵衛、小人目付田草川伝次郎らに西蝦夷地リシリ島辺まで見回りの命が下る。これによって近藤重蔵は、寛政九年の『蝦夷地絵図』で試みたイシカリ川流域の開拓計画を、実地踏査して確認することとなる。
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写真-8 蝦夷風景図(近藤重蔵遺書 東京大学史料編纂所蔵) |