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北方未来考

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 福山への密偵を送り出した翌天保十年、斉昭は大内らの調査を基礎に長年抱いてきた蝦夷地開拓計画の雄大な夢を『北方未来考』として立稿した。その内容は、幕府から蝦夷地全域およびカラフトまでの領有が許可されたことの藩内への布達にはじまるといった、はなはだ意表をついたものであった。その斉昭の計画を次にみてみよう。その柱となるものは、
 北地之儀ハ前ニも申通り石狩川をさか上り勇威山(ユウバリヤマ)の東を城地と定めツウヤコシリ(ソウヤ・オコシリ)島等ニ良材有之候ヘハ何レモ石狩川より運送いたし可申。右勇威山ハ蝦夷地之中国ニて四方八面ニ下知致候ニもよろしく(中略)かた/\城地勇威山東と決可申候。右勇威山の東ヲ城地と致候ヘハ西ハ石狩川南ハ湖水有りて要害もよろしく、且又南面ニ山少く候ヘハ日のあても可然。

というように、ユウバリ山の東側に城を築いてここを中心に計画を運ぶ考えであった。斉昭がここを拠点に選んだのは、イシカリ川の輸送が利用でき、かつユウフツへは千歳川を遡れば通行可能な便利の地とみたからであろう。かつて文化四年(一八〇七)、近藤重蔵は三つの要害候補地以外に、ユウバリの地も掲げていた(第七章参照)。そういう意味からすると、近藤の意見を参考にしたのかもしれない。築城場所を選定したあとの計画は、おおよそ次のようなものであった。
 ①城郭の場所を日出国水戸郡水戸村とする(また別の箇処では、勇威(張)郡勇威城とするとある。また三徳城と命名ともある)。
 ②諸所に城砦、番所を配置し、人数、武器を配備し、諸士を土着させる。
 ③農商の植民と城下町、村落の形成。
 ④農業および諸産業(養蚕、麻、からむし)の開発。
 ⑤防寒の方法(家作、衣服、皮革)。
 ⑥蝦夷地からの納米はあてにせず、何の業も出来ない者のみ百姓にし、土地を与え、十分の一、二を取り立てる。刀、弓を持たせ、非常の節の足軽同様に用いる。
 ⑦大船の建造。
 ⑧育子館の設立。
 ⑨アイヌの教化、保護。
 ⑩請負人は、はじめはこれまでどおりに置き、利害得失を見きわめた上で一切廃止し、奉行を派遣して請負人同様に収納させる。また、もし請負人に任せておいた場合でもアイヌの使役の方法がはなはだしい場合は、年限内であっても引き上げる。
 ⑪城下二、三里のところへ遊廓、酒屋、芝居小屋を建て、繁盛させるようにする。


写真-4 城郭図(徳川斉昭著『北方未来考』)

 このような綿密な計画は、おそらく斉昭の収集した蝦夷地に関する情報、すなわち書物や地図をもとに立てられたのであろう。それに、城郭建設場所を勇威郡としているがそれ以外にも、「しるへし郡」、「十勝郡」といった郡名も掲げている。また、『北方未来考』巻末には、おそらく『山海二策』の付図と思われる『蝦夷地図』と『常総海浜図』二葉の目録がある。そのうち『蝦夷地図』の目録の方には、「図中へ親書」として、次のような興味ある一節が記されている。
本朝六十六ケ国壱岐、対馬之二島を入て、六十八ケ国なれば、松前蝦夷西ハカラフト東ハシコタン等北ハ千島よりカンサツカ迨を北海道と定メ、新ニ国名御附相成粒立たる島ヘハ夫々連枝を取立候て後世北の防禦も行届、徳川家も数々出来可申哉との愚案也。

 以上からすれば、現在の「北海道」の命名の構想は、天保十年の徳川斉昭のそれが最初ということになろう。周辺の島々には連枝(水戸徳川家の分家)を取り立てて、北の備えにといった水戸徳川家の将来を見通した展望がうかがわれる。しかし、この計画は当時の水戸藩がたとえ蝦夷地開拓を一任されたとしても、財政的裏付をまったく欠いた実行不可能に近いものであったようである。
 以上が斉昭の『北方未来考』のおもな内容である。斉昭の蝦夷地開拓計画は、過去の工藤平助の領土拡張論や、大原左金吾の屯田農兵論、そして近藤重蔵イシカリ要害論等を基礎に据えながら、水戸藩の領民を蝦夷地に移して分国を築き、「北海道」と命名するといった、いわば他藩に先がけた先駆的開拓計画を持っていた。これは開拓使以後の諸政策を先取りする案でもあったといえよう。