イシカリには、詰合役人や在住の子弟教育のために、特に学問教授所が設置された。このような施設がおかれたのは、イシカリだけである。
最初に学問教授所に関することがみられるのは、安政四年(一八五七)四月三日に、塩田準(順)庵がイシカリ詰在住を差免され、イシカリの学問教授役となっていることである(公務日記)。準庵はもと小普請医師で、安政三年九月に在住となったのであった。しかし準庵は、六月三日に箱館在住頭取となり、後任にはやはりイシカリ在住の鈴木顕輔が、学問方教授となった(公務日記)。『余市町史』(第一巻一三一五頁)にも、つぎのような史料がみえる。
顕輔の任命に先だった五月六日には、ムロラン・イシカリ在住へ四書五経、小学が五部ずつ送られている(公務日記)。これらは、学問教授所で使用するものであろう。安政五年十月二日には、イシカリ教授方に任命された大熊四郎が赴任途中、ヨイチに到着している(林家 御賄留)。
大熊四郎に関し、万延元年(一八六〇)四月十八日にイシカリを通行した、庄内藩士高橋種芳の『蝦夷日記』には、以下のように述べられている。
また四郎は、書画にすぐれていることが述べられている。『ヨイチ御場所見廻り日記』にも、安政六年五月にヨイチ滞在の折、所々より書を依頼されていたことが伝えられている。四郎は、万延元年六月に市中取締掛ともなった(市史一九二頁)。
『蝦夷日記』には、生徒二人であったと述べられているが、『北地内状留』によると、翌文久元年(一八六一)五月には、村田藤次郎・鈴木□太郎・石渡英太郎・軽部三吉の四人の入塾人がいたという。村田藤次郎は定役小一郎ないし息子の親太郎、鈴木□太郎は顕輔、石渡英太郎はアツタ詰定役の庄左衛門、軽部三吉は在住伝一郎のそれぞれの子弟であろう。
亀谷丑太郎の談(荒井金助事蹟材料)では、学問教授所は「教導館」と名付けられ、命名者は糟谷筑後守義明であったという。義明は文久元年六月に箱館奉行となった人物で、イシカリ廻浦の折にここを訪れ命名したようである(三年八月神奈川奉行に転任)。教師は里見精一郎が中心で、他に大熊時雨太郎・鈴木顕輔がいたと述べている。
また、学問教授所の御用書物出役に、荒井金助の息子好太郎が文久元年四月十五日に任命された。好太郎はその後、明治元年(一八六八)八月十五日に、石狩詰兼学校助教給事席を申し付けられている(箱館裁判所評決留)。
学問教授所と同時に、武道・剣術をきたえる武道稽古所も併設された。安政五年十一月の「書付」に、文武稽古所と教授方住居を兼ねた五〇坪の建物の新築計画が出されており、武術稽古も早くから始められたようである。再び亀谷丑太郎の談によると、撃剣場があり指南は在住の水島玄造で、あわせて弓術も指南したという。また鉄砲は洋風にて、定役の村田小一郎が指導にあたったという。武術教師係であった小山亘(後に倉山和多利と改名)も、この前後にイシカリに来たのであろう。
今井宣徳の『蝦夷客中日記』には、文久二年(一八六二)六月十五日に、「在住其外諸役文武試業会あり」と、文武にわたる試業会がおこなわれたことが伝えられている。また七月には、箱館奉行組頭栗本鋤雲が廻浦の途次、イシカリ入りをした。その折の日記『北巡日録』によると、七月十九日に「小吏及士人子弟、演放小銃」することがおこなわれ、「能中者」には褒美が与えられている。翌二十日には、四書五経の講読、撃剣技がなされ、日頃の成果が披露され学問・武道のさかんな様子がうかがわれる。
また、イシカリには松前藩の勤番時代にならい医師もおかれていた。武藤玄貞(元貞、主膳)は、安政三年にイシカリ詰の医師となり、文久二年まで在任が確認できる。