『丁巳東西蝦夷山川地理取調日誌』によると、今回はオシャマンベ、スッツ、ヨイチを経て五月十七日イシカリに着いた武四郎は、直ちに案内人を手配して四人のアイヌの人たちを得、番人小太郎と一行六人で石狩川の川上検分のため同月十九日イシカリを出立した。この調査では、特にアイヌ人別帳と現実の戸口とを照合し、厳密に人別帳の齟齬を検証していることに注目されるが、ここでは略す。
〈サッポロプト〉サッポロ川筋については、川口が閉されて遡上できないので聞書によるとして、サッポロ川口より一里上った右に大きな谷地があり、昔は相応の沼であった由。さらに五、六丁で二股となる。右手には水源が六つに分かれ、コトニ川などが流れ入る。左手はモエレペツプト、ナイボ、イシャン、フシコペツ等の小川が合して流れ来る。これらの後ろは直ちにツイシカリ川筋に当たるという。
〈ビトイ〉右の方に少し浜があり、鮭曳場。昼休所一棟に漁小屋、ユウフツ出稼小屋もある由。
〈ツイシカリ〉ここの番屋は当年三月に焼失したそうで、ユウフツ出稼小屋に止宿する。当川筋は石狩川第一の漁場である。川筋は、川口を上ればアシュシペツ川が流入し、その口の少し上に周囲三里ほどの沼がある由。下サッポロ・ナイボの両川とツイシカリ川の両方へ水は落ちるという。これをサッポロ側ではモエレペツトウと称す由。またナエボという村跡があり、そこより落ちる水は皆サッポロの方へ当時は流れる。ツイシカリ川側の落ち口の傍らに昔下ツイシカリの小屋があったと聞くが、今は跡形もない。さらに屈曲一里ばかり上にトイヒラがあり、小屋一棟、夷人等の漁場の由、今般の新道切開の口で、ここへハッサムより道路を切り来る。このさらに上に効験著しきこと筆紙に尽し難いと称せられる温泉があるが、手入不備によりよろしからずという。さてこの川源よりウス領への山越え大新道の見込みもあり、またこの川筋には文化期に間宮林蔵もその足跡を印したという。
翌二十日、このツイシカリを発し、上川に向かい、閏五月二十二日イシカリへ一行は帰着し、翌日ゼニバコで堀箱館奉行と落ち合い、二十四日ハッサムの在住検分の行に同道する。
〈ハッサム〉ゼニバコを出て雑木山の細道をたどり、オタルナイ・イシカリ両領の境目のホシオキ、さらにテイネノタフを経て平坦地に入り、ポンハッサム、フシコハッサムを過ぎて夷家村に着く。在住が耕作したという畑には蕎麦・大根・隠元、またアイヌの人たちが蒔いた粟・稗・馬鈴薯も成育し、土地肥沃の証を示している。それよりハッサムに出て舟でハッサム川を下り、イシカリに帰着した。