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目的としくみ

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 幕府は安政元年(一八五四)以来、大規模な蝦夷地調査を行ったが、安政三、四年幕閣にあった五人の老中は各々藩の家臣を松前蝦夷地に派遣し、独自の調査をすすめることになった。この計画は蝦夷地に強い関心を寄せた阿部老中が提案したらしく、「蝦夷地開拓ハ箱館奉行ニ委任セリト雖モ、公(阿部)同列ト謀リ」(懐旧紀事)、首座堀田老中がこれを受けて実現し、安政三年の両家の結果を重視した他の老中も、翌四年各々実施にふみきったものと思われる。
 その目的を関宿藩成石修輔は「開国の是非得失を物色」(東徼私筆)するためといい、佐倉藩須藤秀之助は「風土気候の違度より、山川江河の形体、草木樹材の生殖、禽獣魚鼈の種類、金銀銅鉄の産物等、其大概を認め、且人種の模様巨細に探り参るべきか事なり」という。それは「従前、松前家の政令、民可使由之不可使知之の意にて、黔首を愚にするの法則なれば、教導更になく、唯今日の活計に漁事一趣の民」(唐太紀行)となっているので、藩としてどのような対処のしかたがあるのか、また箱館奉行の施策と協調できる分野があるかどうかを探ろうとしたのである。
 調査にいち早く着手したのは福山藩である。つづいて佐倉藩がとりかかり、安政三年はこの二藩により調査が実施された。前者はこの年イシカリ・サッポロに足を入れなかったから、五老中家のうち最も早くイシカリ・サッポロを調査したのは佐倉藩で、人員も一番多かった。翌四年は五藩の全メンバーがイシカリ・サッポロに来たが、その数はすくなくとも二五人をかぞえ、往復二度来た者を延べ人数にすると三九人以上。これに前年の延べ九人を加えると、イシカリ・サッポロをこの二年間に往来した老中家臣は実に四八人以上にのぼった。
表-1 老中家臣の調査状況
老中調査者調査期間
(北地滞在日)
イシカリ、  
サッポロ滞在日
記録等備考
阿部正弘
 伊勢守
福山
 備後国
 (広島県 福山市)
(一次)
石川和介
寺地強平
山本橘次郎
安政三年
 六月 八日~
 十月一九日
――観国録(石川他二名)
蝦夷紀行(寺地)
蝦夷紀行(石川?)
従者?(一名は条左衛門か)
 
蝦夷地詩稿か
(二次)
石川和介
吉沢五郎右衛門
山本橘次郎
  要助
  卯之助
安政四年
 四月 十日~
 八月二一日
安政四年
 四月二七日
   二八日
 
 七月一一日
   一二日
観国録
吉沢五郎右衛門筆記
遠斎蝦夷紀行
堀田正睦
 備中守
佐倉
 下総国
 (千葉県 佐倉市)
(一次)
窪田官兵衛
佐治岱次郎
佐波銀次郎
黑沼隆三
林弥六
 金太郎
 壮平
安政三年
 六月二三日~
 九月三〇日
安政三年
 七月 七日
    八日
協和私役
西蝦夷図巻(?)
(蝦夷地地利図?)
上申書
(二次)
樺太行
 須藤秀之助
 佐波銀次郎
 酒井周蔵
   源吉
千島行
 嶋田丈助
 三橋清一郎
 今村治郎橘
    長蔵
安政四年
 四月 八日~
 九月 五日
安政四年
 五月 三日
    四日
 
 七月 三日
    四日
    五日
 
 八月 二日
    三日
唐太紀行
北蝦夷画帳
北遊随草
蝦夷日記
東蝦夷図巻(?)
久世広周
 大和守
関宿
 下総国
 (千葉県 関宿町)
青木常之助
成石修輔
小林恭助
水嶋光信
  勝蔵
安政四年
 四月 八日~
 九月一四日
安政四年
 五月 九日
   一〇日
 
 八月 四日
    五日
東徼私筆
廻島異聞(?)
アイヌ人物画
青木の日記がある由
牧野忠雅
 備前守
長岡
 越後国
 (新潟県 長岡市)
森一馬
高井佐藤太
高野嘉左衛門
  忠太
安政四年
 五月 七日~
 九月 三日
安政四年
閏五月 三日
    四日
罕有日記
蝦夷回島録(?)
内藤信親
 紀伊守
村上
 越後国
 (新潟県 村上市)
鳥居存九郎
水谷栄之丞
窪田潜竜
安政四年
 五月 八日~
 八月二九日
安政四年
閏五月 三日
    四日
蝦夷紀行
 (別名北溟紀行)
従者 二名