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第二次調査

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 佐倉藩の第二次蝦夷地調査は翌安政四年二つの班によって行われた。すなわち、エトロフ班とカラフト班各四人ずつ、あわせて八人が蝦夷地におもむき、全員イシカリ・サッポロに足を入れることになる。前回時季に遅れたので、今次は年明け早々命を下し、二月十九日佐倉出発、江戸居住者と合流し、津軽海峡を渡るのに手間どったが四月八日箱館に上陸する。
 両班とも、まずイシカリに行き、ここを調査してから最終目的地へ向かおうと、「石狩より宗谷迄七十四里二十一丁」「石狩ヨリユウフツ迄三十一里」のように、行程コンパスの針をイシカリに立てて計画を練った。しかし、八人が同時に同じコースを通ると宿や船に不都合を生じやすい。特に、この年蝦夷地に足を入れた人々が多かったから、箱館よりオシャマンベまで両班同行、ここで別れ最終目的地まで行き、さらに全員がイシカリを経て帰国するよう行程を変更した。
 まず、エトロフ班の調査をみよう。主任は嶋田丈助、それに三橋清一郎、今村治郎橘と従者長蔵が加わり、いずれも佐倉居住者の四人。丈助は敏、瓶城ともいい農家の五男坊だったが、江戸の林大学頭家で下働きしてのち佐倉に来て学問所の下番を勤めながら苦学力行、嶋田家の養子となる。士籍に列したとはいえ一七俵(のち二二俵)三人扶持と身分は低かったが、才ある者を優遇する藩主の意向で藩黌温故堂の附教に抜擢され、蝦夷地調査の任も博学詩文の才と温厚な性格が窪田に代わる条件となったのだろう。彼の調査復命は高く評価され、特に銀子を賜ったというが、その書を今見出せないのが残念である。今村治郎橘は省吾、義則、美山堂ともいい、黒沼隆三を兄弟子とする絵図師で、会所物書という役にあり、三橋も同役だった。今村は調査記録『蝦夷日記』を残したが、北海道大学附属図書館にある『東蝦夷図巻』が、もし一行にかかわるものならば今村の筆だろうか。
 エトロフ班は安政四年四月十八日箱館出立、同二十四日オシャマンベでカラフト班と別れ太平洋岸を東に進み、五月十九日から七月六日までの七七日間クナシリ、エトロフ及び周辺の島々を詳細に調査した。帰路は東蝦夷地をユウフツまでもどり、ここからイシカリへ向け内陸に入り、八月二日到着する。その後西蝦夷地を南下、クロマツナイ越して八月十五日箱館着、江差、松前を経て十月一日江戸に帰った。