なぜ、箱館奉行はイシカリ改革を行おうとしたのだろうか。前に紹介した『書付』に、その要因として指摘された三点につき検討することにしよう。
第一にあげているのは「追々身上向不手迴」になったためだという。場所請負人として充分な活動ができず責務を果たせなくなってきたということだろうが、具体的な内容は明らかにしていない。請負人は商人だから、不手迴といえば営業の行き詰まり、金銭融通の閉塞等がまず考えられよう。文化年間末からイシカリ場所で疱瘡が大流行しアイヌ人口は急減、これに不漁が追いうちをかけ経営窮迫し、栖原屋の支援を得て阿部屋は家政立て替えに取り組んだ(市史七頁)。その後家運は回復し、安政四年(一八五七)のイシカリ場所では大きな収益をあげているから、経済上の行き詰まりをきたしていたとは思われない。すなわち、この一年の利益は表5のように三四六六両にのぼる。もっとも漁の豊凶に大きく左右される経営だから、各年こうした利益を生じたとは言いきれない。商人の常として、藩や箱館奉行所に、おおいに儲かっていると吹聴はしなかったろうが、請負人をやめさせられるような損失を出していたわけではない。
では、どんな不都合があったのだろうか。幕末阿部屋の内部問題として、①幹部間の対立による業務の渋滞、②使用人の独立志向、③番人の不正横行にともなう信用失墜、をあげることができる。まず幹部間の反目対立の影響である。多くの請負人は松前の福山城下に住み、場所検分の巡廻はしても、現地の運営は支配人を頭とする番人等に委ねられる。阿部屋は天保三年以来番人を勤めあげた円吉を、嘉永五年支配人に抜擢しイシカリ場所をきりもりさせた。ところが六代目伝兵衛(直之)の妹りきの四番目の子林太郎が、本店から請負人代理としてイシカリに乗り込んだので、現地では支配人が二人いるのと同じになる。林太郎は松前から送られる仕込品の受け払いから、出荷物の手配、二八(にはち)取りとの交渉等を掌握したため、円吉の権限は著しく縮小し私恨を生じ、対立の根は深まるばかりであった。しきたりを重んじる大店にありがちな利権絡みの騒動であるが、本店を舞台とするよりも現地でトラブルを醸したから、イシカリに出入りする船手や住人が最も当惑したことだろう。
憤懣やるかたなき支配人円吉とその一派は阿部屋からの独立を模索し始める。幕府の第二次直轄以来、西蝦夷地海岸への出稼人は急増し、箱館奉行所の積極的な出稼奨励策は、円吉一派の独立志向を刺激せずにはおかなかったろう。いつまでも請負人の一使用人であるよりは漁業家として事業をきりもりする夢を抱いて無理はない。円吉は支配人をやめる決心をし、隣のオタルナイ場所にあるアツトマリ漁場(阿部屋の出稼鯡場(にしんば))を自分に貸してほしいと、本店に安政四年十二月再三願い出た。もっとも自己資金がたりなく、阿部屋から完全に独立経営していく見通しは持てなかったので、居小家、蔵、漁具等一切を無料で借用、仕込みも阿部屋から受け、代償として出産物を一括阿部屋に売り渡すことを条件とした(市史一二頁)。本店はこれを認め、安政五年からイシカリ支配人を甚六にかえた。アツトマリ漁場が完全に阿部屋の手を離れ、永代無償譲渡され、小間物商売を兼営する 〓 能登屋円吉が一本立ちするのは文久元年(一八六一)のこと。しかし、その経営は長つづきせず、まもなくオホーツク海岸のモンベツ漁場の番人(帳役)として赴く。資力に乏しく、流通手段を持たない漁業経営者の成長は容易でなかったといえる。ともかく、こうした阿部屋内部の独立志向にともなう分解傾向は、すくなからず請負人としての信頼度を損っていた。
もう一つの問題はイシカリに仕事を求めてやってきた阿部屋の使用人たちの不正行為の横行である。支配人、通詞、帳役等の幹部のもとに、番人、稼方が五〇人ほどおり、彼らは「大抵南部津軽秋田辺の者にて、別に産業も無之、海浜游惰の輩而已」(石川和介 蝦夷地の儀に付奉申上候書付草稿)と見られがちだったが、番人らによる抜荷物の密売は黙視しかねる状態だった。安政五年箱館奉行所からイシカリ番人たちへの申渡し書によると、主人の為筋を心がけず、自分の利欲に迷う不正を糾弾し「何程大漁有之候共、出石不足と申紛、其場所(に)おゐて船方共え安直段(で)荷物密売致し、押領致候」(市史六〇頁)ありさまを改善するよう命じ、阿部屋内部の問題であっても、このままでは場所取締りができかねると幕吏を嘆かせた。不良番人が阿部屋の信用を著しく失墜させたことはまちがいない。ただ、こうした悪弊が他場所に見られず、イシカリ特有だったかといえば、そうではない。イシカリ場所請負制廃止の要因を、ここにのみ求めるわけにはいかないだろう。