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山田家の難儀

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 その後の両者の交渉は表3を見ていただくこととし、五月二十五日箱館奉行所は次の決定を山田家に申し渡した。
 山田家にイシカリ川下け名目免判を渡す。
 出稼所も鯡も本請負場所の見込高に含める。したがってイシカリ等へ出稼して生じた荷物はユウフツ場所の荷物の一部とみなす。
 イシカリ等出稼所からの荷物積み出しは認めるが、それらは総て箱館に廻送し、改めをうけて売り捌かなければならない。

 これでは松前の沖の口徴税に大きくひびき、日本海海運の占める比重が大きい当時、山田家に過重な負担になることは明らかである。山田家のあせりとともに、福山城下にあって沖の口支配体制を支える問屋小宿など有力町人らがさわぎはじめ、松前藩も見すごすわけにはいかない。町人らの集団訴訟にまで発展しそうになり、奉行所はついに今年一年限りの特例として、六月五日次の再決定を下した。
 山田家にイシカリ川下け免判(のみ)を渡す。
 出稼所のうち、アツタ、オタルナイ、タカシマ三場所の鯡荷物は免判は出せないが各場所請負人がさしさわりなしと言うならば、従来通り各場所から積み出し松前で改めをうけてよい(松前藩の沖の口徴税)。
 出稼所のうち、イシカリ場所鮭荷物は、イシカリで積み込み箱館へ廻送しなければならない(箱館奉行所の沖の口徴税)。

 山田家イシカリ出稼による鮭荷物は箱館廻送ときまったが、これが東蝦夷地ユウフツ場所の荷物高の一部と解釈され、直䑺の対象となった。箱館奉行所東蝦夷地出産のについて直䑺を認めていたからである。一年だけと限定されたこの方法は慣例として後年に引き継がれるわけだが、安政三年稲荷丸の箱館出港までに、こうした難題が解決されなければならなかった。
表-3 安政3年 山田家出稼荷物一件日次表
月日山田家箱館奉行所
119奉行より老中へ、沖の口改め東西2分案を伺い出る。
214同案を老中阿部伊勢守決裁、翌日奉行へもどす。
314東西2分方針を達せられ、請書差し出す。東西2分方針を達す(12日ともいう)。
4上旬、初度歎願書差し出す。初度歎願書の書き直しを命ず。
22書き直した願書を差し出す。
23松前藩は西地船改、役銭取立方を伺い出る。
26初度歎願書は認められず差しもどされる。初度歎願書は認めず、差しもどしをきめ、堀奉行決裁。
5114月23日付松前藩よりの伺を大筋認めることを評議、但し山田家免判差留の下ケ札を付することとし、堀奉行決裁。
19再願書を差し出す。
20再願書を受け付ける。
21再願書への追加書を差し出す。
24イシカリ川下ケ免判とし、再願2通の差しもどしをきめ、堀奉行決裁、松前藩山田家免判差除きを通達。この日箱館沖の口番所仕法替を問屋一同ヘ口達。
25再願2通差しもどされ、口達あり、請書差し出す。
27西地出稼荷物箱館廻送決定の報、松前に伝わる。この日より連日有力町人の寄合い、藩との協議つづく。
25日の申し渡しにそって免判をもらいに奉行所行。イシカリ川下ケ免判しか渡さず、再評議はじまる。
64再評議をまとめ今年1年のみ特例を認める、堀奉行決裁。
5新たに願書を出すよう命じられ、差し出す(5月付)。同上が認められ請書を差し出す。松前藩へ報告、松前藩は奉行所への請書提出を拒否。山田家の願書を認める決定をし、申し渡す。同上の決定を松前藩に口達、請書をもとめる。
6松前藩は仮請書を奉行所に差し出す。いまだ再評議を知らぬ松前町人は、ぞくぞく箱館へ出訴に出発する。
7松前より箱館へ出発する町人多し。松前町人より松前藩へ正式な歎願書差し出す。山田家松前藩の請書を受け付ける。
8松前藩は書き直しを命じ差しもどす。奉行所再評議により沙汰替の旨、松前に伝わり、抗議行動さしひかえ。
9山田家への免判様式決定、堀奉行決裁。
11松前に沙汰替の詳細がとどき了承、出訴とりやめ、平穏にもどる。