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イシカリの内国化

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 幕府の直轄により蝦夷地は完全に幕藩体制に組み込まれ、国際的に評価される国家の一部に位置づけられたわけではない。しかし、そうした歴史的方向へ確実に進行していたことをイシカリ改革は物語っている。
 もはや場所という、松前藩知行制に根ざす蝦夷地の経済単位は存在の意義を失い、かえって発展を阻害する遺制になった。イシカリ場所のアイヌはアツタ場所にもオタルナイ場所にも出かける。ユウフツ場所からは多くのアイヌイシカリ場所に毎年やって来た。そうしなければ生活できぬ現実がある以上、改革による場所閉鎖性の打破は必然性をおび、幕府による蝦夷地の惣体掌握を前進させたことになる。
 封建的通行流通制限の撤廃、出稼の奨励、新住人による基礎的な町づくりの進展もまた、内国化を端的に示している。イシカリのアイヌ場所請負人の支配をはなれ、イシカリ役所の管轄に入り風俗習慣まで内国化を求められる。改革によりイシカリの異域性は音をたてて崩れだした。しかし、この時点でイシカリが村とならず、村並とさえ呼ばれた形跡がないことは、改革の限界を示すのだろう。
 生産活動にも新しい側面は顕著となる。漁間農業の定着を軸に、漁業単一型生産構造からの脱却がめざされ、欧米先進技術はまさにイシカリに到達しようとした。こうした一連の動きは、明治になって開拓使が取り上げた基本施策であり、その前駆的事業はイシカリ改革において多く種がまかれ発芽したのである。
 イシカリ改革は、幕藩体制の綻びを繕い、さらに強化しようと目論見られたのであるが、一方では松前藩の経済的基盤を浸蝕し、在来の体制に楔を打ち込んだことも確かだ。こうした矛盾をもちつつ、近代社会出現への一里塚を、イシカリ改革はしるしたのである。