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通行屋の整備

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 『北地内状留』(村山家資料 北大図)には、文久元年(一八六一)五月八日付の城六郎から荒井金助梨本弥五郎へ宛てた書状の中に、トヨヒラ通行屋に関し次の記載がみられる。
豊平渡守銭取立方御取極、同所ヘ夜具之外弐三人前分御廻、通行之節差向差出之品無之様致度、先触ニテ石狩より御遣し之番人間ニ合不申之節ハ、鉄市番人代リニテ取賄、止宿差出無之様いたし置度之事
 但土人ハ渡シ賃不取立之事

 これによるとまず、(一)豊平川の渡舟料を徴収し、(二)通行屋には夜具等を二、三人分まわし、宿泊に支障をきたさないようにすること、次に(三)役人通行の折、番人が間にあわない時は志村鉄一(市)が賄(まかない)をすること、また(四)アイヌからは、渡賃は徴収しないことなどが述べられている。
 この書状をうけた五月三十日付、金助・弥五郎より六郎への返信には、「豊平渡守銭取立方取極、同所へ夜具遣置候様致可申候」とあり、(一)・(二)の実施が返答されている。以上の『北地内状留』からは、まず第一に志村鉄一通行屋の管理にあたっていたこと、第二に豊平川にて渡舟がなされていたこと、第三に通行屋に宿泊設備のなかったことなどが指摘できる。そして、文久元年五月以降に、渡舟料の徴収、通行屋に夜具の設備がおかれたことがわかるのである。このようにトヨヒラ通行屋が整備され、新道利用者とともに通行屋の利用者も増加していったとみられるのである。これらの多くは、ユウフツとイシカリ・オタルナイを往復する、漁場の出稼人たちであったろう。