運上屋・本陣の役割のうち、運送と通信についてみておこう。運上屋・本陣が担当した運送・通信は、隣接の各場所・運上屋との間におけるもので、いわゆる継(つ)ぎ送りの形態であった。それゆえ、イシカリ場所ではイシカリより、①オタルナイ、②ユウフツないし千歳会所、③アツタ、以上の三区間における運送・通信であった。
運送の場合、(一)海路、河川路と(二)陸路にわかれる。(一)海路・河川路を舟で運送することは搔送(かきおくり)と呼ばれていた。各新道が整備される安政四年以前は、いずれも搔送りがよく利用されていた。搔送料は安政二年の場合、人足一人につき帰り扶持ともに、①オタルナイまで玄米一升五合、②ユウフツまで三升七合五夕、③アツタまで一升であった(西蝦夷地場所請ヨリ申上 北大図)。搔送料は人足代のみで、舟賃をとることはなかった。
陸路の継ぎ送りの場合も、荷物持ちの人足を雇えば、やはり人足料はとられた。さらに馬を雇えば馬賃も徴収されることになる。
イシカリで馬が使用されるのは、イシカリ改革以降のことのようである。佐倉藩士の一行が安政四年(一八五七)七月五日に、イシカリから銭箱にむけ馬を雇おうとしたが、「未だ荊馬にて用に適せず」とあり(佐波銀次郎 北遊随草)、馬はいたものの乗馬にはたえられない貧馬であったようである。イシカリで本格的に馬が買い集められるのは、安政六、七年頃で、足軽亀谷丑太郎はオシャマンベ・ウス・ユウフツ・ニイカップ・サルなどを巡回して、四〇余頭を買い集めたという(荒井金助事蹟材料)。これらの一部は、当然本陣に備えられ、運送用に使われたとみられる。明治三年『兵部省分引継書類』には、イシカリには四八頭の馬が記載されている。なお、安政六年九月には、牛二〇頭がイシカリに送られていた(ヨイチ御場所見廻日記)。
通信は、主に箱館奉行所と各場所詰役人間の御用状の伝達や物品の伝送であった。搔送や御用状などの継ぎ立ての人足の労働力は、多くはアイヌに依拠していた。先に紹介した安政二年の人足料は、実は村山家資料(新札幌市史 第六巻)にみるアイヌへの継立賃米と同じで、人足がアイヌによりになわれていたことを示している。