ここで荒井・シノロ村と深く関わったとみられる、金助長男の好太郎および三男の鎗次郎について、この関連を中心にふれてみたい(荒井金助については第一章第三節参照)。
荒井好太郎は、開拓使の履歴綴に明治四年で三六歳とされているから、天保七年の生まれであろう。文久元年三月に、箱館御役所書物御用出役に任じられ、かつ出函におよばず、当分のうちイシカリでの御用取扱を命じられた(事蹟材料中の文書写による)。そして明治元年八月には「元石狩在住」の肩書で、箱館府の石狩詰学校助教給事席を申付けられている(箱館裁判所評決留)。この間、例えば元治元年(一八六四)の漁業関係業務についての手当関係文書中に書物御用出役の肩書で(村並仕法替書類 木村家文書)、あるいは慶応二年(一八六六)四月の、役人に対する進物控中に、肩書はないが調役樋野恵助ほか詰合役人と共に名を連ねている(西蝦夷地高島運上家日記)。すなわち好太郎は文久以来、辞令のとおり主としてイシカリ役所に出仕して、行政官としての職務に従事していたものと思われる。
ただし、イシカリ在住に、いつ、いかなる理由で任じられたかについては、史料を見出してない。書物御用出役は、幕吏の部屋住みの処遇という面が強いから、少なくとも金助が調役のまま死去した慶応二年暮までは、その任にあったと考えられる。
もう一つは、好太郎と荒井・シノロ村との関係である。後年のものではあるが、好太郎が荒井・シノロ村に居住したようにとれる史料がいくつかある。まず篠路の龍雲寺史料中に、断簡で「万延元年 月 日 荒井芳(ママ)太郎直是当篠路在住」(ほかは明治六年、九年記事各一つずつ)と記されたものがあり、また金助の『三十三回忌吊祭諷誦』中に「吾カ墳墓ヲ当地ニトテ……五代荒井芳太郎ニ居住セシメ」云々とあり、さらに金助の墓碑銘中「村落ヲ拓キ荒井邨ト称シ……邸宅ヲ起シ、長子芳太郎ヲ之ニ住セシム」(原漢文)とある。このほか明治五年の開拓使札幌本庁の明細短冊には、「北海道石狩国札幌郡篠路村農」と記されている。おそらく、好太郎は主としてイシカリ役所に出仕しながらも、本拠を荒井・シノロ村においていた、ということであろう。明治以降、篠路村に金助のことはくわしく伝承されているが、好太郎についての事蹟がほとんど残っていないのも、このゆえではないかと思われる。
荒井鎗次郎については、なお知ることが少ない。ただ前出元治元年の木村家文書に、「在住」の肩書で記されていること、明治五年の明細短冊に、やはり「札幌郡篠路村農」と記されているのみである。