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水原県からの定額米

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 この肩代わりに、大蔵省が不足分のうち五九〇〇石を割り当てたのが、維新直後に府が置かれた新潟(水原県)であり、政府が政策を実行しやすい直轄地であった(旧開拓使会計書類 道文六四八二)。裏日本側は前年の凶作の被害を受けず、全国の米の調達先となっていた。そのため新潟港では外国船による積出しやそれに恐慌を起こした農民による一揆などが起こっていた(明治天皇紀 二)。また米の過剰な積出しは、新潟港の鎖港となり、英国公使からの抗議を受けて外交問題も発生していた(新潟県史 史料編一三)。その新潟に米の調達のため平戸少主典が三月末に派遣された。しかし到着直後の三月二十五日新潟港は鎖津された。新潟港では、その期限前に米を積みだそうとして荷役船争いが起こっていた。さらに融雪のための出水で新潟港は大混乱であった。しかし平戸少主典はその混乱の中で情報を集めた。その過程で平戸少主典は札幌から派遣されていた小貫たちの米の調達の様子を知った。その米だけで北海道は十分であると平戸は書き送っている。しかし平戸の任務は臨時の米の調達でなく、定額米の発送である。気脈の通じない場所での情報集めは大変だったらしいが、その結果近くの港から積み出せることを知って、北海道へ送り出した(旧開拓使会計書類 道文六四八二)。その米が函館に到着するのは、水原県へ督促状を出そうとしていた四月十一日頃である(諸官省往復留 道文一七八)。
 明治初期には、政府の予算は金と米の二本立てであった。その一方の米が開拓使では全く不足していたのである。ただでも明治二年は凶作であった。それに加えての定額米不足は資金不足以上に開拓使の政策執行に大きな影響を与えた。
 このような北海道での物資不足の状況は、函館の東久世長官からも、銭函の島判官からも中央政府や東京詰へ報告された。島判官は銭函へ到着後、本府建設開始以前に東京の岩倉具視へ次のように報告している。
兼テ伺済之通、札幌辺エ官舎并役邸等取建、開拓之御基礎相立候心得に御座候処、兵乱後諸場所備米等少しも無之、其上北国辺より之廻米も無之処、降伏人等莫大之人員入込候儀ニ付、必至と諸人難渋致し居候折柄にテ、僅に当役員上下七拾人余之食料すら差支候処、御用廻米も未た着船不致、且諸職人等給料総テ正米ならては相弁不申、如何共可致様も無之、甚当惑罷在候
(岩倉具視関係文書 四)

 これと同様の文言は、十一月二十三日付松浦判官・岩村権判官宛(開拓使公文録 道図)にも見られる。開拓使定額米の未着に加え、戊辰戦争後の北海道への回米不足などによる北海道での全般的な物資不足の状態、さらに兵部省会津降伏人移住、そして本府建設のための諸職人の導入と正米による給料支給など、北海道での物資不足を促進させることばかりであった。それに加えて後述の昇平丸の未着も報告している。