上述のように東久世長官は強く樺太分離を主張したのであるが、それは機構上の問題としてのみならず、背景には開拓経費の問題も内在していた。北海道の殊に辺境地域などは旧大藩にその支配を命じていたが、開拓ならびにロシアへの対応の拠点となるべき函館・石狩・根室・宗谷それに樺太は、開拓使の直轄支配地として迅速な開拓を迫られていた。しかし二年十二月に決定をみた金二〇万両・米一万石という三年度の開拓使定額予算では、右の五地の開拓を展開させることも困難であった。特に樺太と石狩の開拓は無から有を生ぜしめる事業である。島の札幌・西地経営において「金穀共空乏」せしめたと東久世を激怒させたのも、また開拓の前途目的立て難いとの東久世の嘆息も、所詮財政の乏しきがためであった。ここに東久世にとっては、財政を確保安定して北海道の開拓を進めるには、樺太分離が不可欠の前提でもあったのである。
ところが、この樺太分離を決定するや否や、政府部内で開拓使を民部省に合併附属させるという論が起こった。東久世は三年二月十三日付の書簡で岩村に、「(樺太分離は)右之通落着致候、付ては開拓使民部省へ付属、府県同様にて開拓使は是迄通立置、金穀は惣て大蔵省見込にて御渡し可相成などの論政府より沙汰有之候に付、断然右様にては前途目的両途に出、決て不相成」と申し上げたと報じている(岩村通俊関係文書)。また東久世は岩倉に対しても「開拓使合併之事右ハ内々申上候儀にて、敢て開拓使より願出候訳ニハ無之」(岩倉具視文書 国図)として合併阻止を訴えている。他方大橋開拓権判官も三月二日岩倉に「民部開拓合併之廟議如何被為在候哉、迅速御確定不相成候て方向不相定候間、急務之件難相運痛心罷在候」(同前)と、合併否定の方向での決定を促している。
この合併論が生成した経緯については詳細不明である。東久世の言から推察するところ、本来北地問題には対露措置と北海道・樺太の開拓がかかっていた。その対露措置と樺太開拓が新設の樺太開拓使に移管されると、従来の開拓使は北海道開拓のみの管掌となる。とするならば、開拓使という機関は存置するとしても、北海道はもはや府県同様として民部省に属さしめ、また財政も大蔵省の見込において支出するという機構の方が妥当ではないか、と政府は考えたのであろう。
この予期せぬ新たな問題に、東久世もしきりに対応している。その合併反対の骨子は、合併すると民政上の民部省と会計上の大蔵省と、政令二途となって統一的・総括的開拓は不可能になるとのことである。この合併論は結局実現しなかったのであるが、東久世にとってこの合併は、特に会計上に関し、かねてよりいだいていた函館産物会所経営による財源確保という計画を無為にする、という思惑があったとみられる。