物資の輸送の観点からも建設が進められている。輸送に関しては島判官の時代は
兵部省が石狩・小樽を支配していた関係で、
厚田浜益や
余市忍路から人夫に背負わせて札幌または
銭函へ運んでいたようである。しかし
役宅の建設も進んで札幌が役所の街の体裁が整えられつつある三年中は、諸物資の輸送についても考慮を払わなければならなくなった。島判官は石狩を
兵部省に渡すことは了承していた(
副島種臣関係文書 国図)。しかし島判官は小樽を確保することを重要視していた。これから札幌への物資輸送についての島判官の考えをうかがい知ることができる。島判官は石狩からの川輸送を断念したのである。そして小樽からの直接の陸送を目指していたのである。そのため
銭函到着後すぐから
銭函道の開削を行っている。結果的には雪中の工事で湿地帯がわからず雪解け後は使用できなかった。その影響は雪解け後すぐにでた。四月五日予期していなかった移民が小樽に到着した。ところが札幌へすぐに送り込むことができなかった。それは、札幌に物資が不足していたため、送り込んだ後の食料の見通しがつかなかったこと、壮健な男子ならともかく婦女子を含む移民たちを、陸路でも船でも札幌へ連れていくのが難しかったことによる。また四月札幌維持のための物資を輸送しようとした。小樽から帆船で石狩へ運び、さらに篠路へ運送して陸路で札幌へ運び込もうとしたらしい。ところが小樽から石狩へがなかなか届かなかった。その様子を、その輸送手配のために
銭函から石狩へ派遣された藪内少主典は、次のように小樽へ書き送っている。
本月十三日刻附之書状、今申下刻到来、致披見候、然ハ御米積廻政吉丸ハ、十三日は沖合帆形相見候処、風順不宜哉、遂に小樽之方エ〓戻し、尚今夕、帆形相見候に付、引き舟手配なと候得とも、矢張沖合にて帆下し、兎角入船遅着相成、至極当惑に御座候、且又札幌之方、明日頃ハ、米皆無之由を以、人足
小頭友次郎催促に被相廻、心痛致居候
(岩村判官在職中往復綴込 道文一九一)
帆船の悲しさであろう、風がよくないと帆形が見えても着船できないのである。
移民たちと共に
新潟などから送られてきた米は、移民を札幌へ送り込むためにも移民より先に運送しておかねばならないのである。大工たちを送り出してまだ一月もたっていないが、人員削減の原因である札幌の物資不足は改善されていないのである。岩村判官の考えに沿って
本府建設より先に移民を移住させるにしても、そのための交通路と安全な物資輸送と十分な物資が必要だったのである。