北海道への移住は、当時仙台藩内部では「北地跋渉」と呼ばれていた。北地跋渉は亘理の伊達氏のもとで最初に計画され、白石の片倉氏、角田の石川氏などもこれに同調するようになる。伊達氏の家老常盤新九郎(のちに田村顕允(あきまさ)と改名、室蘭ほか四郡長となる)は、六月に広沢真臣(まさおみ)を通じて政府の内諾を得たようである。その後七月八日に開拓使の設置、七月二十二日に諸藩・士族などの志願者への地所割渡しの布告が出され、北地跋渉の条件が整い、八月二十一日に伊達邦成(くにしげ)(藤五郎)に対し正式な許可が下りた。地所は胆振国有珠郡である。
片倉氏のもとでは、斎藤良知(理左衛門)・横山一郎の両名が四月に上京し種々運動をしていたが、伊達氏にならい北地跋渉をとるようになった。七日に帰郷した両名は、片倉邦憲(くにのり)(小十郎)に建議し、家臣を片倉家の菩提寺である傑山寺に集め、北地跋渉につき衆議したという。その結果、北地跋渉論が帰農論を制し、八月(二十日か)に按察使府(二年八月から九月まで白石に設置された政府機関)に、「蝦夷地一方之地面ヲ被相任、引移開拓被仰付候様被成下度」(奥羽盛衰見聞誌 下巻)と嘆願書を提出している。これに対し九月十二日に胆振国幌別郡の支配が認められた。角田の石川邦光(大和)にも、同時に室蘭郡が認められた。
政府では仙台藩に対して八月二十三日に、「北海道開拓之儀ハ方今之急務、追々御処置モ有之候処、於其藩ハ彼地之風土熟知之者モ不少趣相聞候ニ付、士族ヲ始メ農工商ニ至ル迄開拓志願之者相募リ、自費ヲ以テ漸次移住為致候様、精々尽力可致旨御沙汰候事」(太政官日誌―維新日誌巻三)と沙汰書(さたしよ)を出し、移住の勧誘につとめるよう指示している。この沙汰書のためだけではないが、他の窮迫した館主たちも続々と北地跋渉を出願している。まず九月に岩出山の伊達邦直(英橘)、十月に涌谷の亘理胤元(たねもと)(元太郎)が出願し、ともに石狩国札幌・空知郡の内に許可となった。なおまた水沢の伊達邦寧(将監)、船岡の柴田意成(もとしげ)の家中も計画したが、前者は邦寧の同意が得られず、家臣の一部が開拓使支配として平岸に移住するにとどまった。後者は意成が幼弱であったために、伊達邦成のもとに編入されて一部が移住したのみであった。この他、宮床の伊達宗広(勝三郎)も九月に出願したが、のちに計画を断念している。