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開拓使貫属への編入

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 佐藤孝郷(廓尓)は片倉家の家老職の家柄で、白石に残留する家臣たちをまとめる立場にあった。嘉永三年(一八五〇)生まれであるから、明治三年当時は弱冠二〇歳であった。孝郷が大正九年(一九二〇)、白石村の開村五〇年記念に著(あらわ)した『北海道札幌郡白石村外二村移住開拓紀要』には、開拓使貫属への編入までの経過を以下のように記している。
明治三年一月以降角田県庁ニ出頭スルコト数回、権知事武井守正君、大参事木村喬一郎君ニ面謁シ自費ヲ以テ移住開拓スベキ資力ナキ事情ヲ陳述シ、政府ノ保護アランコトヲ稟請セリ。而シテ北地ノ風土気候及ヒ実況視察ノ為メ、同年三月渡道シ明治四年正月帰郷、角田県庁ニ出頭、知事及大参事ニ謁シ実況ヲ具申懇願セリ。武井権知事ハ之ヲ諒トシ、其歳二月特ニ木村大参事ヲ上京セシメ、開拓使ニ協議ノ上政府ニ具申アリ。

 角田県は仙南五郡を管轄する白石県(明治二年九月設置)をうけ、二年十二月に設置されていた(四年十一月仙台県に併合)。県下には亘理伊達、片倉、石川三氏の無禄士族をかかえ、処置に困惑することが多かった。しかも、開拓使御用となった伊達邦成、片倉邦憲石川光親などの移住士族は、身分上の属柄は県にはなく開拓使にあり、扶助も受けられないあり様であった。それだけに早期の移住と救済を求め、佐藤孝郷と数回の協議に及んだらしい。そして、「自費ヲ以テ移住開拓」は不可能であると、「政府ノ保護」を求めて孝郷と斎藤基から太政官へ嘆願書が四年三月に出された。
北海道移住開拓之義ニ付、同志中必至困弊、逐日窮迫ニ至リ中ニハ即今菜色ヲ催シ、殆ト飢餓ニ臨ミ候輩、一時ニ自費ヲ以テ航海運賃ヨリ於彼地生活ハ勿論、住所営繕等万端行届兼候情実、深御洞察寛大至仁之以御仁恤、頻ニ官庁へ御尽シ被成下候内、今般伊達藤五郎片倉小十郎両家ニテ都合六百程之人員、先以開拓使へ御依頼可被成下候条見込之程、篤ト評決奉申上候奉蒙御懇命……。
(六百人員北海道移住諸記録)

 ここでは、「同志必至困弊」の生活の状況を述べ、移住に際しても「万端行届兼」と困難なことを訴え、亘理の伊達邦成(藤五郎)と片倉邦憲(小十郎)の両家の家臣、あわせて六〇〇人につき「開拓使へ御依頼」が求められている。六〇〇人は両家分であったが、太政官では「亘理人数三百人相控、白石人数而已六百人移住為致候様」(奥羽盛衰見聞誌 下巻)と変更している。これをうけ三月十七日に開拓使から、「仙台藩士族片倉小十郎元家来角田県在留ノ者六百人、当使貫属ニ仰付ラル」と(開拓使日誌、日付は奥羽盛衰見聞誌による)、貫属への編入が認められた。貫属は本来、その地に本籍をもつ士族身分のことで、秩禄は府県などを通じて大蔵省から支給されることになっていた。
 六〇〇人という数字は、当初は伊達・片倉の両家の合計分であったが、伊達家に関しては三月十四日に、「伊達藤五郎并同人元家来移住之者」という具合に、すでに移住した者のみにつき貫属編入をおこなっている。片倉家のみで六〇〇人とされたのであるが、この数字は三年一月現在の「北海道開拓有志之徒戸数」が六五一戸あり(奥羽盛衰見聞誌)、そのうち四年三月までに六六戸が幌別に移住している。残り五八五戸をとらえ、概数でもって六〇〇人と算定したものかもしれない。しかし九月の移住の際、「六百人員」とされ家族の総数を含めていわれており、六〇〇人は戸主なのか総家族数なのか判然としない点がある。