明治六年春の融雪期、雪解けに加えての霖雨で豊平川が増水し、四月十六日鴨々川水門が破損して市街に被害が出そうな状況になった。この時は夜中までの人足や官吏の働きで大事には至らなかった。この危機は松本に早急な堤防建設を決意させた。そして東京にいる黒田の許可をとる前に、四月から八月までに一八〇〇円をかけて鴨々川水門の水防工事を行った(開拓使公文録 道文五七五七)。豊平川に関する水防工事は、四年の豊平川の水防棚も鴨々川水門もすでに「重修」(開拓使事業報告)とあるから、その以前から始められていたことがわかる。したがって松本が起こした水防工事は、その施設が不備だったためということになる。さらに松本は、川の中に杭を打って漁をする立ち張り網のために水防工事が水泡に帰すことをおそれて、立ち張り網漁を禁止した(使布達 道文一九八)。
その後十年、十四年の豊平川の堤防工事を中心に札幌の水防工事は進められた。十四年の堤防工事は、ヨーロッパのダニューブ川の堤防を模範として建設された(開拓使事業報告)が、十五年の洪水時には用をなさなかった。しかしその十五年の洪水が契機になって本格的な堤防工事が行われることになった。
明治十五年やはり融雪期の豪雨で、四月二十九日、五月五日と二度の洪水に見舞われた(豊平川洪水之書類綴 道文七三三四)。そのため九、十月北海道巡視をした内務卿山田顕義は豊平川堤防建築を計画し、十六年六月起工し十七年九月竣工した(新北海道史第三巻)。この計画は札幌県の要請により、内務省の古市公威が堤防及び鴨大水門などの設計を指導した。古市の計画では、堤防・護岸・水門・創成橋等の建築、豊平橋台・創成川筋・胆振川筋修繕など、予算額一〇万六四一八円余であった。決算額は、精算書をみると一〇万四四五〇円余であった。また工事請負人を拾ってみると大岡助右衛門、畠山六兵衛、関口藤四郎、古川寅吉、小宮与吉、鶴岡伊之助、片山甚七など多くが開拓使時代からの請負人たちである(豊平川堤防予算差引簿 道文七九二六、豊平川堤防書類 道文七九二七、豊平堤防書類 道文八六五七)。この水防工事の完成により、この後しばらく市街を襲う水害はなくなった。