第一のグループは、ケプロンが自己の開拓構想に即して、必要と認める技術者・技能者の雇用を開拓使に求めたものである。この雇用に際しては、ケプロンと開拓使の間で「総テ余カ補助ヲ撰挙スルノ権アルヘク、又外国御雇人ハ総テ余カ命令ニ従フヘシ」(開拓使公文録 道文五七四二)との確認がかわされており、またその雇用契約書にも、例えばホルトの場合をみると、「雇期中日本政府開拓使ノ官員及ヒ同使ノ顧問「セネラル・ホーレシ・ケプロン」ヨリ達スル諸命令ヲ遵奉致スヘキ事」(同前)との一条が設けられていた。この関係がcommissioner(教師頭取)のいわれであった。
さてこのグループに属する外国人としては、赴任前にケプロンがアメリカで選考して共に来日した、アンチセル(地質・工作・舎密・鉱山、のち仮学校教頭)、ワーフィールド(測量・道路建築)、エルドリッジ(書記兼医師)がいた。ケプロンの来日後、新規または後任として雇用したのが、測量・土木関係にJ・クラーク(のち札幌学校教師)、デー、ワッソン(初め仮学校教師)、地質・鉱物関係のライマン、マンロー、農牧関係にはボーマー、セルトン、ティロル、ダン、ブラウン、それに革鞣師のウェルプ、また機械・工作関係のホルト、S・クラークがいる。開拓使仮学校教師としてさきのアンチセルが教頭となり、以下ワッソン、ランドルフ、べーツ、ロックウェル、コルーイン、それに一時増設の仏語科にフランス人のフーク、また附属女学校にオランダ人のウァーテル、デ・ロイテルとイギリス人のデニスが採用されている。さきにもふれた船舶関係として船長のアスキンス、ウィルソン、一等機関士のクラーク、ロウランド、一等航海士のピアソン、ブレンチスト、二・三等機関・航海士のピィーターソン、アーメス、クラークがいた。それにケプロン退任後であるが、彼の推薦により缶詰製造教師のトリートとその助手スウェットが加わっている。
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写真-1 ケプロンとその幕僚たち 左からジェームス・クラーク、ケプロン、アンチセル、ワーフィールド、エルドリッジ(北大図) |
以上が第一グループのお雇い外国人であるが、彼らと彼らの統括者であるケプロンとの間は、職務上も人間関係においても必ずしも好い関係ではなかった。黒田の信頼は絶大であり、またそれにこたえていたケプロンであったが、アンチセルやブラウンのように、ケプロンとの間に紛議を起こす者もおり、また他の下僚たちもケプロンを好意的にみてはいなかった。ダンもケプロンの開拓顧問としての能力を認めていないし、また「彼がとった物々しい官僚的上役風は、私の気質として気持よく受け入れられなかったのは事実である」(ダン 日本における半世紀の回想)と記している。
次に第二グループの札幌農学校関係では、教頭として迎えられたW・S・クラークによって、ホイラー、ペンハロー、ブルックスが選考されて来札し、その後カッター、ピーボディーも推挙を得て赴任している。別にイギリス人のサマーズが語学を担当している。
第三グループは、発見された大規模の幌内炭山を開鉱すべく、その石炭輸送として幌内・手宮間の鉄道敷設の指揮にあたったのがクロフォードであった。彼の選考によりブラウン、ハロウェー、レーノルズ、ストリクランド、ホイラン、ウイン、マキューンの各種技術者が雇用された。他方、炭鉱開採はゴージョが監督し、その下に坑夫頭としてダウスとイギリス人のパリが来ている。
最後に第四グループとして直接開拓使が雇用した外国人は、函館に設置した露学校にロシア人のサルトル、また耐寒建築の導入を目論んで、ロシアから大工のハムトフ、イワノフ、ノオバシンと暖炉建築のモルジンを雇用した。ドイツ人としては洋式裁縫師のブラント、それに船舶の船長であるブルーンとシュミット、一等機関士のシュミットをアメリカ人船員の後任として採用している。また一時幌内の石炭を石狩川を利用して輸送しようと考えていた開拓使は、その河口改良のためオランダよりファン・ゲントを迎えた。清国からは革鞣工の張尚有と王直金、それに農夫として梁維昇、遅相臣、范永吉、徐七令、許士泰、厳福純、許同経、許敬孔、何正点、何正義の一〇人を雇用した。最後に特殊な職種として、函館港外国船取締官としてイギリス人のホルトル、また通弁訳文方、のちに在函清国人取締も兼務の黄宗祐がいた。