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札幌・発寒・琴似村

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 イシカリ御手作場として慶応二年(一八六六)に形成されたのがサッポロ村である。同村は慶応四(明治元)年に九五人を数え、二年にも四戸一一人が入植している(市史 第一巻九八六頁)。十二年の『地価創定請書』(市史 第七巻)からは、慶応二年から明治二年にかけ二三戸が家屋を営構していることがわかり(市史 第七巻四九六頁)、シノロ村に次ぐ大きな村であった。高木長蔵が二年十一月に名主をつとめており(市史 第六巻六〇七頁)、村役人の存在が知られる。
 幕末に在住村として成立したのは、先のシノロ村の他にハッサム、コトニ村がある。ハッサム村は三年に二〇軒(東久世通禧日録)とされ、在住の招募した農民が多く残っていた。発寒村の『地価創定請書』によると、二年までに土地割渡をうけた者が一四人いる。当時発寒村の範囲が広く、のちの上手稲村まで含まれる。上手稲村の中田儀右衛門、福玉仙吉などもハッサム村の住民とみることができる。村役人もおかれ、百姓代の(笹布)源吉が三年一月に在任していたことが確認できる。
 中川金之助、中嶋彦左衛門らの在住のコトニ開墾場は、慶応三年にイシカリ御手作場にくり入れとなったが、その時の人別は池田仁三郎、渡辺与惣次の二人のみであった。二年に至り、琴似村は「人家二軒、土人家二軒」とされている(恵曽谷日誌)。しかし四年の人別帳(石狩国札幌郡琴似村人別調 道文三一五)には、「在来」が四戸(奥書の集計では六戸)とされ、わずかながら増加がみられる。しかしシノロ、サッポロ、ハッサムにくらべ〝小村〟で、村役人はおかれなかったようである。
 十文字龍助の「御金遣払帖」(市史 第六巻)には、シノロ、発三(寒)、札縨、コトニ村の村名が記され、すでに「村」の呼称が三年にはつけられていたことがわかる。また、ホシホキ(星置)村もみえるが、同村についてはよくわからない。四年には発寒村領字ホシホキ(評議留 道図)とされており、発寒村に編入されたようである。
 島義勇の『石狩大府指図』(北大図)は二年十、十一月頃に作成されたと思われるが、この図には志野呂(篠路)村、開墾村(札幌村のこと)、琴二村、発三村、豊平村の記載がある。当時いずれも実在した村名とみられるが、ただ豊平村に問題が残る。この頃、豊平開墾が行われており、将来に一村を計画するために記載されたとも解せるからである。