写真-10 精農家の経営内容(開墾勉励取調書類 道文2460)
表-11 開墾勉励農家の経営内容(明治10年12月調) |
村名 | 勉励 農家数 | 対全体 戸数比 | 丁壮者数 | 墾成地 面積 | 大麦 | 大豆 | 粟 | 馬 | 果樹 | |||
面積 | 反収 | 面積 | 反収 | 面積 | 反収 | 頭数 | 本数 | |||||
札幌 | 14戸 | 19.2% | 2.1人 | 24.0反 | 3.5反 | 1.1石 | 6.0反 | 1.0石 | 1.8反 | 1.3石 | 0.7頭 | 44.1本 |
苗穂 | 7 | 15.2 | 2.4 | 33.5 | 5.1 | 1.2 | 12.4 | 1.0 | 1.7 | 1.1 | 1.7 | 22.4 |
丘珠 | 10 | 31.3 | 2.5 | 32.3 | 4.9 | 1.2 | 15.8 | 1.1 | 1.2 | 1.1 | 2.1 | 33.9 |
篠路 | 3 | 4.6 | 3.7 | 32.3 | 6.2 | 0.8 | 12.7 | 0.7 | 2.3 | 1.0 | 0.0 | 53.3 |
白石・ 上白石 | 12 | 12.1 | 2.1 | 22.1 | 3.9 | 0.9 | 6.1 | 0.9 | 2.1 | 2.4 | 1.1 | 49.6 |
月寒 | 4 | 8.0 | 4.3 | 27.4 | 4.0 | 0.4 | 6.1 | 0.6 | 8.6 | 1.2 | 2.0 | 27.0 |
平岸 | 2 | 3.1 | 4.0 | 25.4 | 8.0 | 1.0 | 8.3 | 0.9 | 3.8 | 1.3 | 1.0 | 95.0 |
山鼻 | 5 | 38.5 | 1.8 | 33.6 | 6.0 | 0.5 | 18.5 | 0.6 | 6.3 | 1.1 | 0.2 | 37.8 |
琴似 | 2 | 3.3 | 2.0 | 20.2 | 4.0 | 1.2 | 2.8 | 0.9 | 4.0 | 1.4 | 0.0 | 60.5 |
円山 | 5 | 10.6 | 2.4 | 28.8 | 2.4 | 1.0 | 14.1 | 0.7 | 2.0 | 1.6 | 2.4 | 33.4 |
上手稲 | 10 | 17.5 | 2.0 | 25.0 | 5.7 | 0.6 | 3.8 | 0.6 | 1.7 | 1.1 | 牛0.3 | 65.2 |
発寒 | 2 | 7.1 | 2.5 | 21.1 | 2.0 | 1.3 | 4.0 | 0.8 | 1.3 | 1.0 | 6.0 | 45.0 |
雁来 | 15 | 75.0 | (3.8) | 22.6 | 2.9 | 0.6 | 11.4 | 0.8 | 2.2 | 1.4 | 0.2 | 21.5 |
1.対全体戸数比は農家数を『開拓使事業報告』第2編所載明治10年の戸数で除したもの。 2.丁壮者数・作付面積・馬数・果樹数は1戸当平均。 3.雁来の丁壮者数は病・幼者を除く家族数。 4.ほかに札幌市街・豊平・島松があるが1戸ないし出作り等のため除外した。 5.『開墾勉励取調書類』(道文2460)より作成。但し勉励農の基準は不明。 |
勉励農家の選択基準が不明確であり、村役人の上申に任された形であるので対全体戸数比率にムラがあるが、その比率の程度は村の生産状態を間接的ながら反映しているようにも思える。丁壮者数は全ての労働力ではないが、割合少ない印象である。墾成地面積は前掲表のものに比べると二倍以上に達する程である。したがって各作物の作付反別は全体的に大きい。その中では大豆がきわ立って大面積であり、しかも村ごとの差の大きい点は、この作物の商品性に由来する特徴であろう。馬頭数にも資料の不備による誤解もありうるが、当時の技術及び経営の水準のもとでは、精農家が必ずしも馬持ちとは限らないといえるかもしれない。作付面積や馬頭数の大小、地味の善悪等と果樹本数との関連も見ることができる。本表での馬頭数ゼロの篠路・琴似二村は共に果樹本数は多いし、平岸・上手稲二村は後年りんご経営で名をなすが、すでにここでも抜群である。また市街地に比較的好条件で近接する札幌村と円山村は、それぞれ四・九反、五・〇反の野菜畑を持っていたし、反対に丘珠村は二・四反、山鼻村は三・六反しか野菜を作っていなかった。このように諸村それぞれが属する条件下で開墾過程から安定的な農業経営への移行をいわば模索している状態ではなかったろうか。そういうことをそれら諸村を代表する精農家の成績表は示しているようである。この調査の中には前記の中山久蔵、早山清太郎、渡辺寅吉はじめその他共進会出品受賞の人びとが含まれている。