翌八年、発寒川左岸(現西区発寒四~五条、三~四丁目辺)に三二戸分の住区が画されるが、ここは南北に通る道路の両側に八戸ずつ二列の家屋を配し、一戸分の宅地は間口二〇間、奥行一〇間、面積二〇〇坪である。なぜ追加分八戸に接続させなかったか明らかでないが、この年五月、広い適地のない場合は一兵村(中隊)を小隊や分隊ごとに分散配置する案が出されたことと関連するのかもしれない。琴似では当初配分されなかったが、他兵村ではこの宅地に接続する給与地(農耕地)があり、それに週番所、学校、練兵場、士官官舎等が特定区に集約され営兵地域を形成し、これを兵村と呼ぶ。発寒川沿岸の場合は、琴似村と発寒村にまたがる両岸を合わせて琴似兵村と通称している。
二つ目の兵村は札幌市街南端に接し、豊平川と藻岩山麓にはさまれた土地(現中央区南三~三〇条、西七~二二丁目辺)に、明治八、九年にかけて建設された。これを山鼻兵村と通称する。やはり南北と東西に通じる十字路をほぼ中央に敷設、その両側に平行する道路を通し、一区を横二〇〇間、縦一七〇間(標準区画で、場所によりちがいが多い)とし、その中に裏口が背合わせになるよう二列に住居を一〇戸ずつ計二〇戸配置した。したがって一戸分の敷地は間口二〇間、奥行八五間で、その内間口二〇間、奥行一〇間が宅地分(二〇〇坪)で、あとは農耕地(一五〇〇坪)に充てられた。これが琴似兵村の地割りと大きく異なる点で、さらに住居地の周囲をとりまくように多くの農耕地を区画し追給に備えた。
写真-4 山鼻兵村給与地図(道文)
また、住区画を東西に二分したことも特徴であろう。すなわち南北に一列六〇戸の兵屋が背合わせになり、東部一二〇戸、西部一二〇戸の二集落を形成、これを東屯田、西屯田と通称した。入地してみると兵屋の表口に面して細長い給与地が帯状に広がり、背合わせの隣家との交際が不便で、特に井戸が背合わせ四軒の共同利用だったため、日常生活上支障が多かった。そこで背合わせの中央に南北に通じる幅五間の道路を東西両屯田ともに敷設し、当初の裏口を表にかえ、新設道をはさんで向かい合うように区画を変更した。このため一戸当たり間口二〇間、奥行二・五間の宅地(五〇坪)を道路用に醵出したので、給与宅地は琴似同様一五〇坪になった。地番は東屯田北端が一番で、南へ六〇番まで、それに向かい合う並びは南から折り返し六一番から北へ向かって一二〇番まで、西屯田も一二一~一八〇、向側が折り返し一八一から北へ二四〇番とした。
住区画のほぼ中央で交差するよう敷設された道路の十字部分に週番所、練兵場、学校等管理共用施設が位置する。ここをとりまく宅地や農耕地(給与地)の面積は約四八六ヘクタールにおよび、開拓使庁舎と週番所の直線距離は約二・九キロメートルで、琴似の約四・七キロメートルよりもはるかに近く、札幌市街の南方を制する形をなしたのである。
琴似・山鼻兵村は相前後して区画されたとはいえ、両者にみられる差異は重要な意味をもっている。たとえば兵屋配置が密居制であっても、宅地に隣接する給与地が琴似になく山鼻にあること、琴似の住区画は川の両岸に分離しているが山鼻はひと続きの地域にまとまり、それを東西に編成していること、週番所、練兵場、学校等の管理共用施設が、琴似では住区画の外縁に位置するが山鼻はほぼその中央部に組み込んだ配置となっている等である。
この差は兵村建設の進行とともに生じたもので、当初統一的なプランが存在したわけでなく、地理的条件により個々に設計された結果である。前例を検討し、次の兵村の実状に合うよう改善を試みつつ、全道的にみると密居制は散居制にかわり、終末期には山鼻に類似する密居制に戻る展開をみた。琴似では宅地が狭く、馬の世話はもとより小家畜の飼育にも苦労し、農耕地の分散は作業に支障を生じ、隣家と接近していることは便利な一方で、お互いの生活が見えすぎ、欠点の言い合いから不和となることが多かった。そこで十二年発寒川右岸二〇八戸の半数を移転させようとするが実現せず、二十五、六年の地区改正・兵屋移転の大事業まで、最初に開設された住区画の弊害は解消されなかったのである。