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製麻製網

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 養蚕とともに屯田兵自活のための授産事業として奨励されたのは大麻栽培による製麻である(表8)。札幌には慶応年間大友亀太郎の御手作場にロシアから麻種がもたらされ、明治になると開拓使の麻苧製造策によって、農地への栽培が広まりつつあり、市中住人を募って製麻製網場を開くまでに進展していた。
表-8 兵村の製麻製網事業
事業製麻製網
兵村鰊網差網小舌網前操網袋網鮭網
8年琴似0貫0反0把0反0反0反0反
山鼻
9年琴似4000000
山鼻5000000
10年琴似11000000
山鼻0000000
11年琴似100023700000
山鼻333600000
12年琴似157502804659120
山鼻5257100000
13年琴似187703189965740
山鼻5935700000
14年琴似3183069657151761
山鼻11480050940
開拓使事業報告』第5編より作成、但し12年の数字は事業一覧概表により修正。

 琴似兵村では兵屋の東部に共同栽培地を設定し、九年から播種をはじめ、順調な生育をみた。秋にこれを抜き取り根株を切りおとして、家屋近くの所々に置いた麻風呂にひたしほとんど徹夜で蒸したあと、道路わきに並べて乾燥させる。これを貯蔵し冬期間の作業で麻に製して本州の工場へ販売、収入を得たのである。製麻の一部は養蚕所に集め、屯田兵の家族によって麻糸を製造し漁網や綱を試作したが、十年に西南戦争から帰った屯田兵は冬に向かって農作業が困難なため、もっぱら養蚕所の一部を借りて製麻製網にたずさわった。
 これの成績がよかったので、翌十一年からは本格的な事業に取組むことになり、三四八円余を投じて製麻所と麻干場を新築した。山鼻兵村も同年から大麻栽培を始め、同じく三二四円余で建築した。翌年以後さらに麻温所新築、製麻所改築等をすすめ、本州から栽培製麻の技術者を招聘して指導を受け品質の向上に努めた。こうした中から屯田方式ともいえる寒地向製麻法が考案された。製麻は蒸して乾燥させるため秋のうちに作業を済まさなければなかったが、二つに区切った温覆室を設け、入れかえつつ一週間熱湯をそそぐことにより、冬も作業が可能となり、これをもとに鰊漁用網や差網、小舌網、前繰網、袋網等が製造販売されることになった。綱の製造は試験的に行われたが製品化には至らなかったらしい。
 開拓の進捗とともに大麻栽培に風害が目立ち、地力の減少にともない良好な生育がみられなくなると、他地域で生産した製麻を購入して製網を営まなくてはならず、三十年頃まで続いたこの事業は、亜麻栽培へと転換していった。亜麻もまた早くから兵村で試作されていたが製線にはいたらず、本格的な生産は二十年の北海道製麻会社設立以後のことである。兵村ではこの会社の株券募集に応じ、株主総代を選出して工場運営と亜麻栽培の有機的な結びつきに配慮したのである。このように大麻栽培と製網事業は養蚕にくらべると着実な進展をみせ、自活の一歩となり得たが、生産の中心的役割を果たすまでに定着はしなかった。