明治二年(一八六九)七月、政府は宣教師の制度を創設し、一般国民に祭政一致、惟神(かんながら)の大道(神道)を宣布することとした。しかし神道を中心とした国民教化政策は、期待した成果を得られず、五年四月に宣教師を廃して教導職をおき、これによって仏教も教化政策の一翼をになうこととなった。すなわち教導職を無給の官吏待遇とし、大教正から権訓導までの一四階級に分け、神官・僧侶を補して「三条の教則」を宣布させることとした。五年九月には教導職養成を主目的とした大教院、地方にはその地の教化の中心として中教院がおかれ、各宗寺院を小教院とすることとなった。しかし浄土真宗を主体とする大教院分離運動(神仏合同布教の廃止)を主要因として、同院は八年に廃止、各宗毎に布教を行うこととなり、仏教側は独自の活動が目立つようになった。さらに十五年には民社以外の神官の教導職を廃し、十七年に至って神仏教導職は全廃された。
この間、札幌では四年十一月に旧片倉家(元仙台藩内)家中の佐藤廓爾(孝郷)の開拓使あて建言中「宣教官ヲ被設、春秋二度宛北海道中エ巡回教化ヲ宣布被為在候ハヽ可然」(開拓使公文録 道文五七一一)と述べたりはしているが、本格的な活動は、五年五月に黒田開拓次官が「函館港ニ於テ耶蘇教蔓延ニ付」という理由で相当の教導職三人の派遣を申請したのに始まる。したがって、来道教導職の活動は道南が主体ではあったが、六年に権大講義河井順之が札幌へ出張、当時市中唯一の仏教施設であった東本願寺の札幌管刹輪番ほか僧職三人を、権少講義、一四級試補等に任命し、また札幌神社常雇など三人にも試補を申し付けた(神社一件留 道文五九三)。さらに六年五月には市中村々へ教導に関する世話方設置に関する文書があり、七年一月に上・下手稲村民に民事局から説教世話掛を申し付けた文書もあるから(筆算所一件)、おそらくこれは各村におかれたものと思われる。
中教院設置に関しては、六年七月東本願寺管刹内に中教院をおくことの願が札幌の戸長ほか連名で提出され、開拓使もこれを上局に進達した。さらに同年十二月、札幌出張の河井の指示により、河井、札幌神社宮司菊池重賢、東本願寺管刹輪番武田良秀らが連名で、東本願寺官刹内に中教院設立の願を開拓使に提出し、同使もこれを教部省に進達、同省も同意したが、おそらく当時真宗などが展開していた大教院分離運動の故であろう、これは成立しなかった。結局十一年六月、中教院四神をうけ、札幌神社内に設立された。