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山口・広島県からの移住

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 山口村へ移住した旧岩国藩士族たちは、当初山口村植産会社の第一地所とみたて、第二、三地所の設立のために農民もさかんに誘致した。これにより十七年から山口県や広島県からも農民の移住が相次いだ。十七年九月の札幌ほか三郡移住民情況の「復命書」(市史 第七巻)によると、この年に山口県から三七人、広島県から三一人が移住した。広島県移民はいまの手稲区稲穂へ入地するが、さらに十八年は山口県五戸、広島県八戸、十九年は山口県一三戸、広島県二戸が移住し、山口村は山口県と広島県の出身者でほとんどがしめられた。

図-2 移民入植略図(明治20年代中頃まで)

 当時、山口県からは漁・島松村(現恵庭市)、千歳村への移住も行われ、また上手稲下手稲村への移住者も多かった。千歳村は竹山喜左衛門などが指導者であったが、彼は移民を誘導して十七年五月に千歳村に入地している。旅行や入地後の経過を彼は『防長新聞』(明治十七年八月十二日)に報告している。それによると五月十九日に小樽に到着し、千歳村へ出発する予定であった。ところが、以下のように山口村の山口県人が勧誘にきたのである。
山口村ヨリ国方之者迎ニ出色々申ニ付此処ニ止リ度者多分有之、山口村ハ農業一途ニ付不向ナルモ小樽へ五里、銭箱へ壱里、札幌ニ六里ニテ日雇稼ノ者弁利之所モ有之、彼是ニテ上手稲村山口村へ移住致度者モ多数有之ニ付、本人等之好ニ任セ山口村総代人等ニ示談之上手続仕置候也。

 ここで山口村は「農業一途ニ付不向」であるが、「日雇稼ノ者弁利」により入地先を変更し千歳村ではなくここに入地することを希望した者が多数いたことが述べられている。山口村から勧誘にきたということであるが、これも旧岩国藩士族の人びとであっただろう。また山口村とならび上手稲村への移住のこともふれられている。
 植産会社に関係をもつ山本章玉井利之助柏村桃作などが上手稲村のいまの西区西野に、五〇戸分五〇万坪の地所割渡しを申請したのは十五年十二月であった。これ以降、西野に山口・広島県の移民の入地をみるようになる。西区宮の沢に林梅五郎ほか四戸が山口県から入地するのは十七年五月で、彼は竹山喜左衛門の一行に加わり、入地先を変更した一人であった(市史 第七巻三二七頁)。
 なお篠路村にも山口県からの移住がみられる。もと山口部落(現北区篠路町拓北)といわれた所である。ここは十九年頃に山口県出身で工部卿、司法卿をつとめた山田顕義が地所の割渡しをうけたことに始まる。
 広島県からの移住は十六年から始まる。この年九月に、広島県高宮郡東野村(現広島市安佐南区)出身の和田数次郎が誘導した一五戸は、平岸村簾舞に移住した。翌十七年五月に八戸、十月にも六戸が移住している(合計で三五戸ともいわれている 市史 第七巻二八一頁)。しかし十六年の移住者は、「開墾ハ勿論、該村へ滞在候者一名モ無之、他ハ諸方へ離散シ日雇稼等ヲ以漸ク生計ヲ凌キ居候」(同前 三二五頁)といわれ、まったく離散の状況であった。十七年五月の移住者も、「前移民ト同シク出稼ヲナシ、目下移住地於テ開墾ニ従事スル者絶テナシ」とされている。簾舞の広島移民が失敗したのは、移住というより出稼ぎのつもりであったことや条件の悪い地所を選定したことにもよるが、「誘導者ハ専ラ私利ヲ計ル者」(同前)と誘導者が原因とされている。和田数次郎は十七年八月に移民募集のために帰国したが、札幌県では広島県に彼の行途を照会し、さらに広島県では十八年三月三十日に無届の帰県を戒告する布達を出している(本県達帳 広島県立図書館)。それでも簾舞の広島移民がすべて失敗に終わったわけではなかった。十七年に移住した前鼻林七理寛寺栄蔵など八人は、十八年四月に今度は上手稲村の今の西野へ再移住し、広島開墾として成功を収めることになった。
 山口村に三一人が入植したのは先述のように十八年であったが、この時期、広島県からの北海道移住は多い。和田郁次郎月寒村輪厚(現広島町)に移住したのは十六年であるが、招致した移民が増加してくるのもこの頃である。