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祭と娯楽

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 札幌本府下の市中や村の人びとは、東北・北陸方面からの移住者が多かった。このため出身地からの祭を持ち込んだ場合も多く、三吉神社の祭礼はその代表的なものであった。これは秋田県出身の木村藤吉が十年豊平河畔に奉斎したのにはじまり、十一年九月には渡島通一二〇番地の斉藤甚三郎の敷地(現大通西八丁目)に移転、近村の杣子・馬追が参詣したという。これは以来秋田県人によって例祭が行われてきたが、のち札幌の氏神となった。一方、開拓使が六年七月札幌神社祭日には官員をはじめ庶民にいたるまで休業・遙拝すべきことを達した札幌神社の例祭は、七年からは毎年六月十五日と定め、山車や御輿渡御が行われた。このため、十四日から十六日にかけては市中をはじめ近郷近在から見物客が大勢訪れ、旅館は満杯となり遙拝所付近は露店が立ち並び、人びとでごったがえした。また琴似街道の路上で挙行の奉納競馬も五年以来例祭には欠かせないものとなり、人びとを熱狂させた。さらに札幌の人びとを楽しませたものに秋山座で興行される芝居があり、また巡回してくる大相撲があった。
 一般に盆は陰暦の七月に行われた。盆踊りが盛んに行われ、山鼻村屯田兵村においても盛んだったようで、しばしばけんかも加わったと当時の新聞は伝えている(函館新聞)。
 このほか六月三十日と十二月三十一日に札幌神社では大祓が行われた。とくに六月の場合は夏越(なご)しの祭と呼ばれ、人びとは人形(ひとかた)を作って一人一人の名前を書きつけ川に流して、悪疫除去を祈った。この習俗は、開拓使が五年、官員に礼服着用で参加させた(十文字龍助関係文書 市史 第六巻)のを最後に、その後は私的行事となった。
 なお、十年の西南戦役の戦死者を弔うため、十二年偕楽園内に「屯田兵招魂之碑」が建設され、同年十月二十七日大祭が行われた。以後毎年八月二、三両日の例祭日には、屯田兵によって慰霊祭が営まれるに至った。
 また一方、十五年の廃使置県後、札幌本府建設を後世に伝えるモニュメントとして開拓紀念碑設立の運動がおこり、札幌神社宮司杉戸大角が発起人となり拠金を募った。十九年九月偕楽園内に建てられたのがそれである。