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富岡へ行った少女たち

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 明治七年三月、開拓使の殖産興業政策の一つとして、六人の少女が製糸伝習工女として群馬県富岡の官営富岡製糸場に派遣された。その六人の少女とは、札幌郡上白石村の大河内なか(一二歳)・加藤きう(一一歳四カ月)・菅野きそ(一三歳五カ月)の三人と、函館管内から選ばれた三人とであった(雑記 高畑家文書、開拓使公文録 道文五九八一、五七九四)。

写真-6 官営富岡製糸場行き製糸伝習工女
-中央引率の高畑利宜と右側6人-
明治7年3月17日芝増上寺で撮影か(滝川市高畑イク氏蔵)

 開拓使では、官営富岡製糸場開業から七カ月たった六年五月、大蔵省へ伝習工女派遣について問い合わせを行い、回答ののちただちに六月二十四日付で札幌市中へ「年齢十二歳以上十四歳以下ノ女子ノ人選」(市在布達)を布達した。これは函館管内へも布達されたが、製糸伝習に応募する者がなく、人選は難航した。それでも翌七年一月、まず函館管内で先に今泉やゑ以下三人が決定し、札幌本庁でも四人の応募者のうち二月十三日、前記三人が決定した(表11)。
表-11 官営富岡製糸場行き製糸伝習工女名簿
氏 名年 齢出身地父兄名続柄備 考
大河内なか12歳石狩国札幌郡上白石村大河内頼綱仙台藩
片倉小十郎
従者
加藤きう11歳4月   同      農加藤利道長女
菅野きそ13歳5月   同      農菅野嘉敏長女
今泉やゑ13歳5月渡島国亀田郡七重村 農今泉善太郎三女
斎藤きん12歳   同      農斎藤東十郎二女
松本とせ12歳2月   同  鷲木村 農松本芳三郎長女
*明治7年3月入場、9年8月帰国。『開拓使公文録』(道文5794,5981)、『白石藩移住後継者団体資料』(道開)、『雑記』(高畑家文書)より作成。

 ところで、少女たちの住む上白石村は、四年に宮城県白石から移住してきた元仙台藩士片倉家従者によって建設された村で、六年に白石本村から豊平川沿いに再移住した村であった。このため父母たちは、移住以来日が浅く娘の支度を整えてやることも不可能と、開拓使側に支度料の借入を願い出ていた。開拓使側と父母たちとのやりとりの末、結局「壱人拾円宛十ケ賦七(年脱カ)七月十二月両度上納」ということで父母たちも納得したようである(雑記)。
 群馬県富岡までは開拓権少主典高畑利宜が引率者となり、一行は札幌を七年二月二十四日出発、富岡には三月二十一日到着した。札幌を出発してから二十八日目、総距離にして三〇七里半の行程であった。途中函館では、函館支庁管内の三人の少女が加わった。また、東京までは九人の電信生も同行した。なお現在高畑利宜の子孫高畑家には、「明治七年三月十七日富岡製糸場へ生徒引渡紀念」の写真に和歌一首が添えて残されている。
 東京から富岡までは、「女児旅行ニ付特別之訳を以」てということで人力車に乗って行っている。旅費は、一人一日三〇銭ずつで札幌からの分は合わせて二七円九〇銭かかった(同前)。
 当時の官営富岡製糸場は、フランス人技師ポール・ブリューナを長とするフランス人技術者・製糸女教師等を指導者として、洋式機械による生糸製造の模範工場として五年十月、群馬県富岡の地一万五六〇八坪に創立された。総工費一九万八五七二円を要した工場内には、煉瓦造りの壮大な東西二棟の置繭所・繰糸所・蒸汽釜所・吐煙筒・賄所・工女寄宿舎二棟等の建物があり、繰糸場の釜数は三〇〇釜であった。開拓使の工女が入場した七年三月には、製糸場内で働く工女たちは、六年四月段階の五五六人を上回っていたであろう(富岡製糸場誌 上)。
 工女の労働は、「払暁に食し、蒸汽鳴管を待って場に登り、朝七時業に就き、九時に半字間休み、十二時に食し、一時間休み、四時半帰宿す」というごとく、実働八時間で、休日は天長節・七節と毎日曜日と決められていた。また寄宿舎は、六畳一部屋に工女三人ずつとし、五部屋に一人小使女を置くことができた。給料も巧拙に応じ支給され、衣服料として年五円が支給された(同前)。
 北海道から開拓使の伝習工女が入場したことは、製糸場内にすぐさま知れ渡ったらしい。和田英の『富岡日記』にも、「三月末頃で有りました。製糸場一同は一ノ宮へお花見に参りました(中略)其前日、北海道から工女が両名入場致しました。其人も参りまして、其工女を送ってお出に成ました。役人もお出に成ました。『ラツコ』の皮の外とうを着て居られました。私共は其役人も工女も皆『アイヌ』人種かと思って居りました。後から考へ舛と、決して左様では有りませぬ」と、当時の本州の人びとの北海道に対するイメージを代表していて大変興味深い。
 こうして工女六人は、九年七月開拓使の呼び戻しまで技術修得につとめた。