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白石村と大谷地・厚別の発展

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 白石村は篠路村とならび人口の急増がはげしい所で、特に大谷地・厚別方面の開拓が進展したことによるものであった。
 大谷地は十八年に阿住勘五郎駒林鉄五郎が来住したことが嚆矢とされているが(白石村誌)、十九年に福井県から移住した一一戸四七人は大谷地に入植し水田を試みたとされ(市史 第七巻二九五頁)、この頃から開拓が本格的に進められた。月寒川と厚別川にはさまれた低湿地で水田の便には適していたが、二十年六月に六〇町歩を収得して農場を開いた月寒村吉田善太郎諸橋亀吉などにより厚別(あしりべつ)(現清田・北野)から二六一三間の用水路(吉田堀)が二十七年頃に完成し、大谷地の水田面積は飛躍的に増大した。
 大谷地は月寒、白石の両村にまたがり、二十八年は白石村で六〇戸一八六人、月寒村で七八戸二三七人おり、八月に両村連合の大谷地尋常小学校が設置された(豊平町史資料)。吉田農場にも小作が五〇余人いたという(道毎日 二十八年一月九日付)。
 白石村の本通(国道一二号)は、二十二年十二月に厚別までのび、本村と厚別との連絡も容易になり、信州(信濃)開墾地として開けた厚別もますます発展をみるようになった。二十四年十一月には広島までの道路も開通し、さらに二十七年八月一日に幌内鉄道の厚別停車場が開業するにいたり、交通の要衝として市街の形成もみられるようになった。二十六年の厚別の戸数は二五〇戸、人口八一六人(八五五人とも記す)とされ、四月に信濃尋常小学校(二十三年に仮教育所を設置)も開学している。
 厚別がまとまった村落を形成するにしたがい、白石村からの分村も請願されるようになった。三十年七月に白石上白石村戸長役場が分立した際に作成された、旧豊平外四カ村戸長(舟橋八五郎)の「演説書」は、この問題につき以下のように述べている(市史 第七巻一〇〇三頁)。
白石村ノ内字信洲開墾地ハ……現今戸数三百五十余戸ニ達シ、本村ヲ去ル殆ント弐里余ノ遠隔ニ一部落ヲナシ、自ラ村情モ異ナリ之迄再三村名設置出願シタルモ今詮議ニ至ラズ。已ニ一学校其他ノ村費モ経済ヲ異ニシ維持シ居ル場合ニ付、相当ノ村界ヲ定メ一村ヲ新設候方、将来村治統轄上至便ト被考候。

 このように「村名設置」「一村ヲ新設」の動向をみせていたが、実現にはいたらなかった。
 厚別の中心となったのは河西由造などの長野県出身者のほかに、二十五年に阿部(第一)農場を開いた阿部仁太郎がいる。彼は豊平村総代人、消防組組頭、郵便局長をつとめた豊平村の草分けであるが、ここに農場を開いて以来、厚別の発展に尽力し停車場の設置も彼の貢献によるという。阿部農場を中心にして二十九年に大日本北海道農会厚別支会が結成され、また四五人の組員からなる愛隣会の消防組も組織されている。彼は二十九年十月十六日に厚別郵便局を開設し、局長もつとめている。