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移住推進の団体・組織

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 拓殖の進展にはまず第一に本道への移民が必要である。そのために移住の斡旋をはかる会社、組織、団体が続々と誕生をみるのもこの時期の特徴である。また周旋屋や回漕業者による詐欺まがいの活動も横行し、社会問題ともなっていた。
 『北海道毎日新聞』は二十年十月に創刊以来、論説・報道に移住・拓殖に関係する記事を多く掲載し、二十四年九月には「北海道の拓地植民は日本全国の一大利益なり。故に我社は執心に之を主張拡充す」のスローガンをかかげ、十月から上田重良(のちの小樽新聞社主)、橋本義知の二人の記者を移住勧誘のために全国へ派遣した。勧誘記者の報告は同紙に「遊説日誌」として掲載されている。この時期の保存紙にかなりの欠号があるので、全貌については不明な点もあるが、十一月の東京にての演説会を手始めに、翌二十五年三月の広島ないし山口まで遊説を続け、五月に帰札している。この間、三府一三県にて三七回の演説会を開催している(北海道通覧)。演説会では当時はまだ珍しかった幻灯器械で七五枚の道内各地のスライドを映写し、移住案内の印刷物を配布するなど、北海道の実情を正確に伝えるよう種々の工夫がなされ、各地で相当の興味をもって迎えられ、演説会も盛興を博すことが多かった(中村英重 移住史研究の課題と『遊説日誌』)。

写真-4 明治25年1月23日に移住勧誘演説会が開催された
徳島県美馬郡役所(徳島県立図書館蔵)

 道毎日の移住勧誘に併行して北海道移住案内協会移民募集も、京都・徳島・愛媛・広島でおこなわれている。同会は二十四年九月頃設立された民間の斡旋機関で、釧路に本所、札幌に支所がおかれていた。竹村延馬片村熊太郎が発起人となっていたが、熊太郎はかつて福岡県から月寒村に入植した報国社総代である。彼は二十三年七月に、札幌周辺村の小作人によりつくられた新村結成の組頭となり、翌二十四年二月に下野幌官林に三〇〇戸分の貸下地を申請し、新村の設立をはかったが不許可となり失敗に終わっている。先の協会も何ら成果をあげることができず失敗したようである。この他にも大農場では直接各県に係員を派遣して農民の募集につとめ、場合によっては各県の周旋屋に依頼することもあった。
 以上は民間で行われた移民勧誘・募集活動であったが、公的機関が参与するようになるのは二十六年三月に東京に北海道協会が設置されて以降である。同協会は、「北海道に於ける拓殖事業の発展を企図し、北海道の事実を調査し之を公示して移住者の為めに勉めて便利を与へ、以て本道と府県とを連結せしむる」(道毎日 二十七年一月十二日付)目的で結成された。移住の勧誘、印刷物の刊行のほかに汽船、汽車の割引切符の発行の事業を行うなど重要なはたらきをしていた。同協会の北海道支部は二十六年四月に札幌におかれ、移住者の相談業務にも応じ、会員は二十七年に五一七人に達していた(小樽新聞 二十八年七月三十一日付)。同協会では道内に小樽、函館、室蘭、宗谷、網走の各出張所を設置しており、道内各地の情報を集めると共に、政府・道庁の政策や拓殖予算・計画も札幌から各地へ発信された。
 北海道協会は割引切符の発行をしていただけに、同協会の関与した移住者数は相当にのぼるが、それとは別に多くの移住者の移住契機は同郷の知人による呼び寄せが多い。北海道の情報量が限られた当時にあっては、それが最も確実で信頼性のおけるものであったろう。そのためにたとえば札幌の山口同郷懇話会では、「郷里と気脈を通じて移住者の便を謀る」ことを目的に移住案内を県下に配布したり(道毎日 二十七年一月二十七日付)、秋田北海道協会の札幌支部を設け、秋田県人の移住者の便宜がはかられたり(同前 二十七年十二月二十七日、二十八年二月六日付)、岐阜県郷友会では愛別原野移住者の困窮に義捐金を送付して援助したりするなど(岐阜日日新聞 二十九年三月二十五日付)、様々な活動を通して同郷人の移住を援助していた。
 このように札幌では、種々の拓殖、移住推進に関係する団体・組織がうまれ、マスコミと共に世論を喚起する一方で、実際に移住勧誘の役割をはたしていた。札幌に上記の団体・組織がつくられたのは、やはり政府・道庁の政策、拓殖計画・予算などの情報がいち早く流れ、また道内各地や各府県の動向・情報も集中してくる、〝道都〟としての情報都市的な性格が形成されたことによろう。
 この他に個人で北海道や札幌の情報を郷里に送る者もいた。一般に呼び寄せなどは私信や帰郷の際に行われたであろうが、小西和の場合は地元紙に送稿している。彼は香川県大川郡長尾町の出身で、二十三年、一七歳の時に札幌農学校へ入学した。在学中にすでに栗沢村に小西農場を設立するが、彼は二十四年から二十七年にかけ『香川新報』に「北海道・札幌通信」「北海道旅行記」などを送稿し続け、北海道と札幌に関する種々の情報と共に香川県からの移住者の動向も伝え、同県からの移住者をひき寄せる大きな役割をになった(彼の経歴については『讃岐人物風景』第一三巻参照)。

写真-5 小西和