兵村に関わる土地は次の四種に大別され、いずれも札幌の歴史とともに変遷し今日の市民生活の土台となっている。第一は個々の兵員に給与された土地、後に完全な私有権設定地となるもので、せまい意味で給与地と呼ぶことにする。第二は兵村という団体に下付された土地、給与地ではあるが第一の土地と区別して公有地と呼ぶことにする。規則上は公有財産の一部をなす土地で、共有地と呼ばれることもあるが、不動産を公有財産、預貯金株券等を共有財産(金)に分ける場合が多いので混同を避けた。第三は兵村運営に必要な共同施設の官用地、中隊本部、将校官舎、練兵場、射的場、事業場等の用地だが、その多くは解隊後公有財産に編入替されるので、第二と三の区別は流動的である。公有財産にならなかった土地は原則として国有地として残るが、地方公共団体へ移ることもある。そして第四は道路、河川敷、用排水溝、風防林等の用地、一部私有地に変わったところもあるが、大部分は国、道、市が所管するそれぞれの用地として今日に引き継がれている。以上のうち第三、四の土地と施設については既述したので、以下第一、二の用地について本節で述べることにする。
屯田兵に土地を給与する政府方針、すなわち北海道の未開地を無償で譲渡し農耕地に変えさせることは兵制の最も基本的要件であるが、明治七年十月三十日太政大臣裁可の屯田兵例則には条文化されていない(禀裁録 道文一〇七一三)。一兵員五〇〇〇坪の土地給与はその前年に決定済だったというから、例則にあえて含める必要がなかったとも考えられるが、開拓使の案文中諸給助及貸渡器械定則には「各屯田兵ニハ開拓地ヲ分与シ、之ヲ私有物タラシム」とあったが、各省協議で削除されたらしい。屯田兵例則の名で印刷配布された条文末尾には「拓地ハ一戸ニ付凡五千坪余ヲ給ス」と登載されているので(開拓使公文録 道文五八三八)、十月三十日裁可後早い時期にこのように改正されたようである。なお、この条項は『開拓使事業報告原稿』(道文七二〇八)にあるが、印刷刊行の『布令類聚』、『開拓使公文鈔録』等には見られない。
五〇〇〇坪を三〇〇〇坪給与に減反決定したのは琴似入地直後山鼻計画中の八年六月二十三日、「若シ余力アル者ハ更ニ若干ノ地面見積相渡候様仕度」(開拓使日誌)としているが、例則と錯誤が生じたため九年六月例則附録を編纂し、その中に「拓地ハ一戸ニ付凡五千坪余ヲ給スト有之候処、当分一戸三千坪ヲ給ス」と登載しようとした。しかし当分都合により適宜裁減したまでで、例則変更に及ばないとする意見が通り、沙汰止みとなった。
原則五〇〇〇、実質三〇〇〇を一万坪給与に変更する検討がなされ、正式決定をみるのは十一年二月十九日である。琴似八年入地者の扶助期間終了が近づくと、自活のために必要な農耕地面積を現状にそって見直さなければならなくなり、家族が多くさらに開墾余力を持つ兵員にも対応しなければならなかった。但し、例則を改正することなく、五〇〇〇坪成墾者に限ってさらに五〇〇〇坪以内の追給与が可能という条件付加である(開拓使公文録 道文五八七七)。これについて『開拓使事業報告』は九年の末尾に「従来給与地ハ一戸五千坪ヲ限ルト雖モ、漸次農業進歩ニ随ヒ一万坪迄ヲ給スルノ制ニ定ム」と述べている。現場では九年から一万坪までの追給が始まっており、規則上が十一年からと解釈できないこともないが、疑義は残る。なお十一年には江別兵村でエドウィン・ダンの助言で一戸一万二〇〇〇坪給与が決まっている。
一万坪給与は十八年制定の屯田兵本部概則第二二条に成文化され、二十三年屯田兵土地給与規則ができると一戸およそ一万五〇〇〇坪を給与し、下士官になるとさらに五〇〇〇坪を増給することになった。注目すべきはここで墾成の如何にかかわらず一万五〇〇〇坪まで給与することにし、八年入地者にまでさかのぼって全兵員に適用されたことである。当初計画の三倍もの土地を全戸に付与する方針は、北海道開拓に兵制をより強固に位置づけ、試行錯誤をくり返しながらも寒地農業確立に果たす役割を一層期待したからだろう。この土地給与は各兵村でそれぞれ実地即応的な展開を見せるので、札幌の四兵村の様子を次にみることにする。