二十年代の札幌が次第に都市としての様相を帯びてきたのには、ひとつには電灯がはじめて灯されたことや、公園や墓地が整備され、都会生活の顔が加わったからでもある。
電灯は二十四年十一月七日、北海道電灯会社(大通西三丁目、代表後藤半七等)が開業し、火力発電によってはじめて札幌の街にあかりが灯された。しかし当初需要者はわずか三〇戸、八三灯に過ぎず、おもな需要者は道庁、郵便局、〓今井、山形屋旅館、東京庵など官庁と大きな商店であった。やがて需要者も次第に増加し、二十五年十二月末には一一〇戸、五〇〇灯に達し、やっと一般家庭にも入り始めた。北海道電灯会社は二十七年に北海道電灯舎(岡田昌作)に引き継がれ、さらに二十九年には札幌電灯株式会社に組織替えとなった。この時点でやっと七七〇灯に達し、申し込み者が相次いだ。一方、北海道製麻会社では二十二年早くも照明用として自家発電施設を作動させている。
写真-1 北海道電灯会社(札幌繁栄図録)
電灯に次いで開化のシンボルというべき電話は、鉄道電話や監獄電話がまずとりつけられたが、次第に札幌区役所・北海道庁間、札幌停車場・北海道庁間といった官庁電話が設けられていった。民間における設置計画は二十五年頃から開始され、三十二年七月札幌電話交換局が開局され、翌年三月交換業務が開始された。この時点の加入者は二二九人であった。
札幌の公園は、六年の公園設置に関する太政官布告に先立つこと二年、四年に岩村通俊主唱の市民遊覧の場としての偕楽園が設置されたのを嚆矢とするが、官園、育種場的色彩が強かった。それに比べ中島遊園地は、十七年中島付近の住民総代・有志の意見によって公園予定地としてまず認可され、翌年中島遊園地となった。一八万余坪の中島遊園地は、実際には岡田佐助の岡田花園など民間委託によって公園整備が進められていった。二十年代には物産陳列場、共進会、大相撲、競馬会、園遊会、花火大会等の催場として用いられ、遊覧場の一つとして市民の憩の場として親しまれた。