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第七師団の設置と入営

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 日清戦争終了後、政府の軍備拡張計画に基づき常備の近衛ほか六個師団を倍増し、さらに六個師団を編成することとなった。二十九年一月、札幌が徴兵令適用地域に入ると、三月十六日の勅令で「第七師団を北海道札幌」に設置することが決定した。その候補地としてはじめ平岸村もあげられたが、七月に月寒村に確定し、八月には兵営地が実地見分され、建設予定の兵屋、作業場、病院、官舎等の用地の実測に入った。
 兵営予定地は、札幌区の中心創成橋より一里内外、直線にして三〇町以内で千歳へ抜ける室蘭街道(現国道三六号)に面していた。敷地は一〇〇万坪必要のところ、二十九年度は一七万坪確保することとし、買収地面積四九町四反六畝歩、買収金額一万七〇〇余円(移転費も含む)と見積られた。しかし実際、所有者五八人のうち二人は献納にしている。
 月寒兵営工事は、同年十二月一日に最初の入営者を迎える関係で歩兵・砲兵・工兵からなる独立歩兵大隊本部、その他兵舎、営倉、浴室等一二棟、井戸三六本等の建設が急ピッチで進められた。しかし当時の懐古談等によれば独立工兵隊は兵舎も未完成で、壁さえ塗られていないありさまであったという(豊平町史資料)。
 二十九年十一月下旬、新設なったばかり(一部未完成)の月寒村の兵営に入営兵たちが、遠くは道外や函館区、亀田、松前、檜山、寿都各郡から、近くは小樽、岩内、夕張、室蘭、札幌各郡、それに札幌区からぞくぞくと集まってきた。札幌区札幌郡からの入営者のために尚武会(前身は日清戦争の時設立された軍人家族保護会)札幌支部が、十一月二十三日豊平館で送別会を催したり、村々においても壮行会が開かれ、入営当日は五色の大旗をもって月寒村まで見送った。
 二十九年十二月一日、月寒村に新設なったばかりの第七師団に入営した現役兵は一七〇三人、一年志願兵八人、下士候補生一八人であった。うち道外の各師団から徴集した兵員は一〇八一人にのぼったという(豊平町史)。二十九年当時の月寒村の戸口は、六一七戸、二五二六人(北海道戸口表)であるから、村民が一挙に約一・七倍にふくれあがったことになる。この後も、毎年十二月一日をもって入営兵を迎え、三十一年には札幌支庁から二一人をはじめ全道から二二三人が入営した。また最初の除隊者を出した三十二年には全国から一七七八人(うち道内六九七人)の入営兵を迎えている。