二十年、開拓使時代以来開拓使御雇医師として札幌農学校に勤務し、また札幌県立病院顧問として活躍したカッター教授が満期退職したので、代わりにドイツ人医師ドクトル・F・グリンムを札幌病院長に招聘した。
グリンム院長を中心に同年十月札幌病院院則を制定し、病室を内科、外科、婦人科、眼科、伝染病室の五種類に分けるとともに薬価・入院料を改め、一日の入院料を上一円、中四〇銭、下三〇銭とした。
二十三年三月道庁では、札幌をはじめ道内四つの庁立病院を廃止し、新たに北海道病院職制を定め札幌に庁立北海道病院を新設した。従来の庁立札幌病院は廃止され、四月札幌区に交付されて公立札幌病院となった。同年十一月、北一条西八丁目に建築中の新病院(庁立北海道病院兼公立札幌病院)が落成し、二十四年一月開院した。本館は二階建二〇四坪で、病棟六棟一四〇床を備え、精神病室、伝染病室、石炭倉庫などが建ち、院長公宅一棟も建てられた。この総工費は四万五〇〇〇円であった。
二十四年三月、建物、医師を共有した庁立北海道病院が経費節減のため廃止され、公立札幌病院に一本化された。このため病院の経費は区費の支弁となったが、医師の俸給等は町村医設置規則の適用を受けて地方費から補助された。しかし、病院経営は困難をきわめ、公立病院の維持をめぐって論議され、薬価・入院料を値上げせざるを得なかった。
二十年に札幌病院院長に就任したグリンムは、二十五年七月満期退職し、病院長に関場不二彦副院長が就任した。同年中関場院長は、北海禁酒会アイヌ矯風部の委嘱を受けて「アイヌ病室」を開設して施療にも当たった。しかし、その関場院長も二十六年十月退職して、私立病院の経営に当たることとなった。
二十七、八年の日清戦争においては、医師を臨時第七師団に従軍させたほか、日赤北海道支社の篤志看護婦人に戦時救護法を指導し、看護婦養成の嚆矢をつくった。それとともに二十七年には公立札幌病院内に私立産婆教習所を設置し、開拓使時代に実施され一時中断していたのを復活させ、以後産婆養成の拠点となった(後述)。
また当時の人びとがかかりやすかった病気を公立札幌病院の患者数でみるに、二十六年の下半期の場合では、表22のとおりであった。これによると、患者数四五八五人のうち、もっとも多かったのは呼吸器病の九九〇人、次いで神経及五官に関するもの六九七人、伝染病六五四人、皮膚・筋肉に関するもの五八三人、間歇熱(おこり)一九四人、梅毒一七四人の順となっている。このように呼吸器病や眼病(なかでもトラコーマ)、そして伝染病等に多くかかった原因には、厳冬期が長いため暖房設備の不備や室内の換気の悪さ、さらには衛生知識の欠如等が考えられる。
表-22 札幌病院施治患者数(明治26年7月~12月) |
疾病 | 男 | 女 | 計 |
伝染病 | 491人 | 163人 | 654人 |
栄養不良 | 35 | 22 | 57 |
皮膚・筋肉 | 410 | 173 | 583 |
骨・関節 | 67 | 20 | 87 |
血行器 | 24 | 9 | 33 |
神経五官 | 451 | 246 | 697 |
呼吸器 | 675 | 315 | 990 |
泌尿・生殖器 | 30 | 140 | 170 |
同外襲性変化 | 47 | 22 | 69 |
中毒症 | 2 | 2 | |
肺病 | 54 | 29 | 83 |
脚気 | 128 | 33 | 161 |
梅毒諸症 | 140 | 34 | 174 |
間歇熱 | 149 | 45 | 194 |
不明 | 130 | 61 | 191 |
計 | 3120 | 1465 | 4585 |
『北海道毎日新聞』明治27年1月28日付より作成。 |