三十一年の場合、このように洪水がくりかえされた。四月の場合は貧困者救済が実施されたが、七月の場合は窮民賑恤規則により焚出し米を給与した。しかし九月の場合、石狩原野の洪水では空前の大惨事となり、「死者百以上を以て数へ負傷者幾百と号し家屋の破壊墾地の流失幾万をもって数ふるのみならず本年度の作付物は一も残さず流失」するありさまであった。このため、同年九月十日付で北海道毎日新聞社、北門新報社、北海日日新聞社、小樽新聞社の四社が協力して義捐金募集を開始した。これまでの方法で救済するには被害があまりにも大きかったからである。新聞社四社以外でも札幌区内官界、財界出身者を中心に洪水罹災者救恤発起人会が設立され、義捐金募集を札樽各新聞社に委託すること、ただし現金取扱は屯田、北海両銀行の本支店に依嘱することとした。早くも九月十一日には札幌区、豊平村および札幌区内小学生等から合計七三五円九五銭の義捐金が寄せられ、九月二十三日までに義捐金額は四五六二円二六銭四厘に達した。
札幌支庁では、まず罹災民に救恤規則にもとづき救助米を支給することとし、札幌支庁管内各戸長役場部内に合わせて一〇〇石を支給した。しかし、もっとも被害の大きかった篠路・丘珠両村では、十月に入ってから賑恤米合計六九石四斗五合の給与方を請願している。
水害罹災者義捐金・義捐物資の募集は、あらゆる方面でも行われた。寄席においては慈善興行が、北海禁酒会においては慈善音楽会が、北海道教育会では罹災学校復旧補助のために義捐金募集が、また仏教、キリスト教の宗派をこえての義捐金募集がというように、衆庶の浄財が募られた。また私立北辰病院のごとく、罹災者に限り薬価・治療代を半額にといった措置もとられた。
この水害により、北海道の治水工事の立ち遅れを痛感したのは北海道協会の幹部たちであった。同年九月末、内務大臣板垣退助へ近衛会頭を介して「北海道拓殖に関する治水主義に付請願書」が提出されたのはそのためである。