ビューア該当ページ

西四丁目通(停車場通)の景観

129 ~ 130 / 915ページ
 二十五年五月四日、狸小路から出火し、南三条北側から大通以南の西二丁目から四丁目の間が焼野原となる。飛び火によって焼失した建築物もあった。南二条西五丁目にあった札幌区役所はこの大火で焼失する。大通以北の警察署、北海道毎日新聞社、創成小学校、また西四丁目通に面する札幌女学校、札幌地方裁判所札幌区裁判所も類焼した。焼失家屋八八七戸、札幌における史上最大の災禍となった。大火直後の五月十五日、北海道庁は延焼拡大を招いた木造家屋の柾葺屋根を不燃材料で葺くよう改善勧告する。この大火を契機として瓦葺、次いで三十年中頃から亜鉛鉄板葺に改まって行く。
 駅前通の建築に戻って、二十六年に北四条西三丁目の南西角に駅前通最初のレンガ造二階建ての興農園五番舘が建築される。後に北側及び東側に増築して札幌最初のデパートとして開業する。〓今井がデパート形式に改めるのは大正五年十月のことである。四十一年、札幌駅が西四丁目通の正面位置に改築される。同年北三条西四丁目に鉄道集会所が、また北五条西三丁目に北海道炭礦汽船本社社屋が落成する。翌四十二年、北大通西三丁目に石造の北海道拓殖銀行本店行舎が完工する。本格的なルネサンス様式の登場である。大正期に入って、五年西四丁目通に馬鉄軌道が開通し、七年から電車に改まり賑わいを呈するようになる。五年北五条西四丁目の札幌駅の西前方に大ドームを頂く堂々たる北海道帝国鉄道管理局庁舎が完成する。七年北一条西四丁目に開道五十年記念博覧会の第二会場となった工業館が落成する。駅前通は同博覧会開催の頃から、ようやく整った建築景観を示すようになるのである。
 大通以南の元町屋地については、『札幌狸小路発展史』(昭35・9)が商家の景況の変遷を詳述しているので省略する。一つだけ付け加えると、西四丁目通の北一条通から以南は一一間の幅員で一般道路並となっていた。現在の二〇間幅員に拡幅されるのは第二次大戦後の都市計画事業によるものである。
 駅前通は南四条通以南から遊廓であるため、一般の通行は中断される形となっていた。同遊廓が白石へ移転するのは大正九年。移設後この地区が今日の薄野繁華街の中核となるのである。

写真-7 大正中頃の停車場通 左奥は停車場,中央は興農園五番舘(札幌神社写真帖)