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相次ぐ「公葬」と〝英霊〟の奉祀

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 明治三十八年一月二十三日に、第二五聯隊の補充大隊で、六九人の遺骨遺髪分配式が初めて行われたのを皮切りにして、新聞にも葬儀の広告が頻繁に掲載されるようになる。ここでは当時の「公葬」の模様を二例だけ紹介しておきたい。
 旅順で戦死をした陸軍歩兵一等兵吉久長次郎の葬儀は一月十九日に執行されたが、北七条西二丁目の自宅から葬儀場となった南三条東四丁目の北海寺まで北友会(町内会)、第六部消防団員、北九条小学校、札幌中学校五年生が先頭となり、棺の前後に親戚・知己が従い、その後に高等官、札幌奉公義会会員、愛国婦人会員、札幌婦人会員、北海仏教団団員、札幌聯合各宗寺院、東方和合会員、甲辰出征慰問会員、第一二区衛生組合員などの諸団体が会旗を掲げて続き、有志者を合わせて五丁にわたる約八〇〇人の葬列となっていた(北タイ 明38・1・18)。また葬儀では、札幌聯合各宗寺院、北海道長官、札幌奉公義会長、北海道尚武会支部長、北海道武徳会長、北友会長の弔辞が読まれた。

写真-3 吉久長次郎の「公葬」広告(北タイ 明38.1.18)

 四月五日に白石村の白石小学校で営まれた陸軍歩兵中尉安齋寅吉(札幌農学校出身、道庁土木部勤務)の葬儀には、官公署、学校、各種団体など約一四〇〇人が参列し、「同村開村以来の盛葬」といわれた(北タイ 明38・4・5)。
 第二五聯隊の隊葬式も大通一〇丁目の練兵場で何度か挙行されたが、民間では致誠団(総代加藤寛六郎札幌区長)を組織して後援にあたっていた。
 このような「公葬」が毎日のように各所で営まれ、〝英霊〟が誕生していったのである。札幌護国神社には日露戦争で戦死した一一〇人の〝英霊〟が奉祀されている。その中には救護看護婦であった一柳ツカも入っている。同社には昭和十五年七月五日現在まで三七九柱までが奉祀されているが、唯一の女性の「軍神」であった(一柳ツカについては七章三節参照)。