こういった記念碑の建立状況を当時の新聞報道にみる(以下北タイ)。全道レベルの大事業として、明治四十年四月三日の神武天皇祭を期して、日露戦勝記念に第七師団を率いた大迫(おおせこ)尚敏将軍銅像が中島公園に建てられた。このとき三五四五円余の寄付金が集まっている。四十二年十一月十日には、かつて北海道庁長官や屯田兵司令官を歴任した永山武四郎将軍の銅像除幕式が、道庁長官・区長・連隊関係者・遺族・各小学校代表ら五〇〇余人の参列にて、大通西三丁目で執り行われた。また大正二年十月二十六日、三〇五人を祀る鉄道殉職碑が苗穂の鉄道工場内に建立された。
地域においては、明治四十三年十一月二十七日、牧場を経営し月寒への第二五聯隊誘致を図った吉田善太郎の頌徳紀念碑が月寒干城台公園に除幕され、大正四年九月十九日、同じ公園内に大迫尚敏陸軍大将の揮毫による忠魂碑の除幕式が、連隊関係者・在郷軍人会分会員ら臨席のもと執り行われた。白石藩士族が移住した白石村でも、「北海開拓の先駆者たるの名誉を荷ふものなり」として大正元年七月七日、白石神社境内に開村記念碑を落成させた。一方琴似村では二年六月二十九日、開村碑と並んで建てられた忠魂碑の除幕式が、在郷軍人会・青年会・愛国婦人会・赤十字社員・軍人遺族・学校児童有志ら数百人の参列のもと、神職の忠魂詞・僧侶の独誦といった地域の宗教を総動員して執り行われた。
北海道立図書館の『山田文庫』には、大正二年六月二十九日の琴似村忠魂碑除幕式における、帝国在郷軍人会琴似分会長、忠魂碑建設委員長山田貞介の手になる式辞の草稿が残っている(北タイ 大2・6・30)。山田貞介は、明治七年に最初の屯田兵として会津から琴似兵村に移住し、西南戦争、日清日露戦争に従軍した。式辞では、明治維新以来のアジアへの侵略の経緯と正当性を説いたあと、
惟フニ三十七八年役ノ効果実ニ偉大ナリ、蓋シ世界列国ニ向テ対等ノ位置ヲ占メ得ルト益々皇威ト武力トヲ発揚シ、今ヤ孜々トシテ国運ノ発展宇宙ニ冠タリ、之レ忠勇義烈ノ余栄ナリ(中略)国家曠古ノ大事ニ臨ミ凡ソ生ヲ天ニ受ケル者、誰カ国家ニ貢献スル覚悟ナカルベカス(ママ)、以テ永久不朽ヲ顧ミ満腔ノ慷慨熱血ヲ注キ有志ト謀リ、忠魂碑ヲ建立シ伏テ仰キ慰藉セントスル
と、欧米列強と対等になった日露戦勝利の自負と、戦没者への慰霊の気持ちを伝えた。それは同時に、会津藩、敗残の士族が近代国家にからめ捕られる物語でもある。
また、この除幕式における帝国在郷軍人会札幌支部長高橋於菟丸の祭詞では、忠魂碑が必要とされる社会思潮について、
戦雲一タヒ収マリ平和歳ヲ経ルト共ニ社会ノ思潮ハ又昔日ノ如クナル能ハサルモノアリ、摯実敬虔ノ美風ハ漸ク地ヲ掃ハントシ国民尚武ノ実質時ニ閑却セラルヽモノナキヲ保セス
(山田文庫 道図)
と、日露戦後の社会思潮の頽廃の中で「国民尚武」が必要と説くのである。