日露戦争の終結した明治三十八年(一九〇五)十二月、『北海タイムス』紙上に札幌の将来像を予感した「札幌区政雑観」が連載された。筆者「土岐生」によれば、当時の札幌は商業地でもなければ工業地でもない街をなしており、札幌区の発達は北海道庁その他諸官庁の所在地として、北海道の政治の中心地だからこそであって、いわば「月給取り」の街として繁栄してきたのである。それなのに、第七師団をはじめ鉄道部の一部が旭川に去り、また炭礦会社本社が岩見沢に移転したことは、札幌を衰微させる原因になりかねない。札幌をさらに繁栄に導くためには増設師団を誘致し、「月給取り」の人口を増す以外に考えられない(北タイ 明38・12・13~24)と強調した。
この「土岐生」のいう北海道庁をはじめ諸官庁所在地であることが、まさしく札幌の都市としてのシンボルの要でもあった。
「月給取り」の街は、また一大消費都市でもあった。三十二年の区制施行の翌年三月、電話交換業務が開始され、文明開化のシンボルがあらたに加わった。最初の加入者は二二九人であったが、まさに公衆の便宜をはかった公衆電話所も設置され、日露戦争以後は利用者の急増に交換業務が追いつかず、職業婦人のはしりとなった電話交換手たちはもっぱら客の小言の聞き役となった(北タイ 明39・12・25)。
すでに明治二十年代に札幌の街にあかりを灯した電灯は、三十年代以降いよいよ需要者を増し、三十五年段階では札幌区内のみならず、月寒村の一部にまで供給していた。さらに同年山鼻村に新築された劇場札幌座をはじめ周辺の家々にまで供給された(北タイ 明35・4・1)。この電灯の供給により、すでに三十二、三年頃から普及しはじめていた活動写真が、日露戦争時には生々しい戦場風景を一般大衆へ伝達する手段となった。それとともに、戦勝祝賀会では赤・青・黄色のイルミネーションで街中を彩り、戦勝ムードを一段と盛り上げる役割を担った。
電灯使用は、札幌の街を大火から守るためにも奨励された。四十年五月十日の大火災は三六六戸を類焼したが、火元が勧工場の石油ランプであったことから、札幌区長青木定謙はランプ廃止、電灯使用を呼びかけた(北タイ 明40・7・10)。
電気と並んで、四十四年六月北海道瓦斯会社が創立し、翌年九月石炭ガスを用いてガスの供給を開始した。これにより大正に入ってから、点灯用と燃料用のガスが次第に普及していった(北海道瓦斯五十五年史)。
札幌区が公園整備を計画的に開始したのは四十年からで、中島遊園地と円山公園が四十一年に本格的公園に整備された(北タイ 明41・1・28)。一方大通は、四十年に興農園の小川二郎が芝庭を設計、大通逍遙地となるのは四十二年以降のことである(北タイ 明42・6・5)。
それとともに、札幌の街の記念碑がこの時期に建設されていった。三十六年には黒田清隆の銅像が大通西八丁目に、四十年には第七師団師団長大迫尚敏の銅像が中島遊園地内に、また四十二年には元屯田司令長官・元北海道庁長官永山武四郎の銅像が大通西三丁目に建設された。いずれも道・区民有志から募った醵金をもって建設され、札幌は開拓使以来四〇年を経て、記念碑の時代を迎えた。
このほかに、屯田兵招魂碑も三十六年、にわかに街の中心地への移転論が沸騰、四十年中島遊園地に移転した。さらに戦勝記念の植樹も行われ、都市のシンボルが加わった。