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北方軍政の拠点

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 地方都市における札幌の性格として取り上げた道都、教育の二点は本時代以前に形づくられていたものの継承(変化はしているが)であったが、統制経済北方軍政の拠点という二点は本時代に、しかも後期に集中的に成立した、非常時、戦時体制の所産である。
 日本の軍政整備の過程で、北海道に第七師団が設置されたのは明治二十九年のことで、その司令部が札幌にあった。ところが区制施行直後の三十三年からこれの旭川移転が始まり、札幌の景気に悪影響を及ぼし、区政の進め方に批判が集まることとなった。以来久しく北海道における軍政の中心は旭川にあって、札幌はその管轄内に含まれていたが、昭和十一年に天皇行幸とあわせて実施された陸軍特別大演習は、あらためて札幌の軍事的位置づけを見直す結果になったのである。
 大演習で札幌には大本営が設置され、天皇の行在所ともなったが、それは日本の満州進出、対アメリカ、対ソ連との戦略にかかわって、北海道のはたす役割の重要性が認識され、その指揮司令の拠点として札幌が浮上したと考えられる。日本北部の国境線はソ連に接し、アメリカへ最も近距離にあったから、戦闘攻撃上重要な位置にあり、また自然環境が満州と共通する点が多く、北海道での演習訓練は満州進出の鍵となった。

写真-7 陸軍特別大演習における桑園駅での乗車状況(昭11.10)

 北海道がこうした外地への進出攻撃の役割を担えば、同時にアメリカ、ソ連からの反撃目標となるのは明らかで、大演習は防衛対策の必要を喚起することにもなった。札幌市では道内市町村にさきがけ、昭和十年防護団を組織し早々に防空演習を開始した。十二年九月になって第七師団司令部との間に総動員警備に関する協定が結ばれ、全道に防空演習計画がいきわたったが、札幌市でもこの計画にそって既設防護団をさらに増強することにした。すなわち、防空委員会を置き防空計画を策定し、市内を一二部に区分して防護分団を設け、各分団に庶務、会計、警報、警護、防火、交通、防毒、避難、救護、工作、配給の一一係(班)をつくった。防空演習には第七師団や市内学校配属将校が指導員として加わり、十二年には市内で延べ一一一回もの訓練が実施されたが、さらに年々回数が増え内容も強化徹底されていった。札幌市の防空監視隊本部豊平町月寒の歩兵二五聯隊内に設けられたが、十三年これを市役所に隣接する札幌警察署に移し、防空監視哨を市役所屋上に仮設し、在郷軍人と青年学校生徒や青年団員が交代で航空機の監視にあたった。防護団はのちに警防団に改組し、さらに公区制の中に取り込まれていった。
 市民のこうした積極的な防空対策とともに、重要な意義をもったのは、昭和十五年の北部軍司令部の設置である。その以前から兵器、被服、糧秣廠等が置かれ、海軍人事部も設けられたが、この軍政機関は北海道、樺太、千島とともに東北地方四県をも広域管轄するという、別段の役割を帯びていた。のち四県は除外され、また業務内容に改正が加えられ、北部軍管区と第五方面軍に分掌されるが、広域管轄には変わりなかった。気づいてみれば、いつの間にか札幌は日本北部の軍政の拠点になっていたというのが実感であろう。「我ガ市勢ハ逐年躍進ノ一途ヲ辿リ、殊ニ年内(昭和十八年)ニ於テハ北部憲兵隊司令部ノ新設セラルル等、軍衙並ニ駐屯部隊ヲ迎へ、北門ノ鎖鑰タル本道ノ首都トシテ、一層其ノ使命ノ重要性ヲ加ヘタリ」(札幌市事務報告 昭18)と報告される意味は十分にあったのである。
 敗戦が迫ると、政府や軍部の一部に北海道を千島樺太に含めてソ連に譲渡し、アメリカ、イギリスとの和平仲介を目論む意見が出たという。事実ソ連軍部では北海道の一部占領計画がたてられたが、もし、そうした事態にたちいたったら、札幌市はその性格を大きく変えていたかも知れない。世界史的にみれば太平洋戦争の敗戦は第二次世界大戦の終わりを意味し、日本の近代の結末である。札幌市にとっても、明治以来「内地」化をめざしてきた近代という時代の幕ぎれとなったのである。