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政党政派

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 札幌市における政党勢力の盛衰は、中央政界の動きを敏感に映していた。市制施行時の二大勢力として立憲政友会憲政会があり、区制期を通して前者が優位な活動をみせ(市史 第三巻七七頁)、立憲国民党革新倶楽部へ衣替えする時期であった。ところが市制施行後初の市会議員選挙は、札幌市の政党支持色を塗り変え、憲政会が主勢力を形成し、以後政党の全面解党時にいたるまでこの基本構図が維持されたのである。
 政友会は農村部で、憲政会は都市部で支持者が多いといわれるが、札幌市政をみるかぎり、憲政会系の優位性はさほど強力ではなく、過半数を制するにいたらず、むしろ政友会系と小差を争う選挙が多く、少数の中立議員の去就が対立議題に決定的役割をはたした。そうした中で、選挙のつど市政の脱政党化が叫ばれ、両党対立が引き金となって市民集会が開かれたりしたが、基本構図を変えるにいたらなかった。したがって、大正十三年政友会が分裂し政友本党が生まれ、さらにその解党合流によって憲政会は昭和二年立憲民政党となり、政友会もまた本党の一部を合わせ党勢を維持したので、民政党政友会の二大勢力は政界再編成後も継続したのである。これら既成政党を支持しない労働者や農民は、無産政党の創立を企図し、日本共産党も結成されるが、それらについては第六章二節で述べることとする。
 札幌市民の政党支持を概観するために、道会議員と衆議院議員の選出結果をまとめてみよう。道議では、表10のとおり本期間に五回の総選挙と五回の補欠選挙があり、札幌市を選挙区として延べ二〇人の議員が出た(翼賛選挙無投票の一人を除く)。その内、憲政会民政党系は一二人で、政友会系(含本党)三人、無産政党二人、中立三人である。石狩支庁管轄町村を選挙区として延べ一七人が選出されているが、その内、憲政会民政党系九人、政友会系六人、中立二人である。この結果からも、札幌市部で憲政会民政党系が強く、周囲の町村で政友会系がやや優勢であることがうかがえよう。
 衆議は表11のとおり本期間に七回選挙が行われ、札幌市を主集票地とする議員は延べ七人誕生した。その内、憲政会民政党系は四人で、政友会系二人、無産政党一人である。一方、石狩支庁管轄町村を主集票地として当選した延べ五人についてみると、政友会系四人で、あとの一人は中立を名乗り、憲政会民政党系は皆無である。中西六三郎は一六回選挙で民政党から立候補したが、それまでの経歴から政友会系に含めての数である。
 市会においては、憲政会民政党系議員は実業青年会(団)を、政友会系議員は公友会をつくり、選挙戦もこの会派名で争った。大正十五年の市会初の普選以後、懇話会同志会一新会新政会準中立等の小会派が統合され、同好会と中正倶楽部になったが、昭和五年選挙で中正倶楽部が分裂再編して中正会となり、別に政友会系の更新会ができた。これら小会派の所属議員は各三~六人で政友会系が多く、いわゆる無所属(純中立)議員は数名である。なお、昭和五年市会選挙後、落選した立候補者が集まり札幌市政の革新を標榜し、市政革新同盟を組織したが、どのくらいの期間活動したかは明らかでない。
 一方、中央政界では昭和七年政友会犬養毅内閣が倒れて以降、政党が内閣を組織できず、主導権争いと党内対立の激化を招いた。十五年近衛文麿が新体制運動の推進を表明すると、政党内部からも既成政党を解消し全国民的強力新党を結成すべしとの意見が出てきた。その中心となったのは政友会久原派で、十五年七月十六日に解党したが、それに先だち唯一の合法無産政党であった社会大衆党はすすんで解党し、最後までがんばった民政党主流派も八月十五日解党せざるを得なかった。中央政界の消滅は、当然札幌にある各政党支部の自然消滅につながり、八月中に全支部が解散し、無党時代となったのである。