ビューア該当ページ

一級町村制と村長選挙

175 ~ 178 / 1147ページ
 一級町村制の施行により、町村長はこれまでの道庁任命方式から町村会にて選挙することになったが、初代の議会選挙の村長には、琴似村清水凉(すずし)、札幌村―許士(きよし)善太郎藻岩村佐藤正三郎白石村鈴木武良が選ばれている。
 琴似村長の清水凉は、美瑛村戸長、永山村長を経て大正六年に琴似村長に就任していた。就任直後に新築役場の位置をめぐって紛糾を続ける村内をまとめてからは、堅実な行政手腕をよく発揮し、村の発展に数々の実績を挙げていた。昭和六年六月の改選に際し、失言問題から九票対八票という僅差で再選されたこともあったが(樽新 昭6・6・20)、琴似村が十二年四月に一級町村制を施行した後も、七月の村議会にて村長に選出されることになった。清水凉は、「日夜町村事務ニ専念シ実務ニ精通、財政経理ニ長ジ事ニ処スルニ中正克(よ)ク村内ノ平和ヲ保チ、吏道ノ範ヲ示シテ吏僚ノ鑑タリ」といわれているように(北海道拓殖功労者旌彰録 昭11)、きわめて良吏型の村長であった。町制実施後の昭和十八年五月まで二五年間にわたり琴似の町村長をつとめ、この間、北海道町村会会長、石狩支庁管内町村会会長などの要職を歴任していた。周辺町村で信望を集めて長期に在職したのは、この清水凉と豊平町長の松崎亀二の二人のみであった。
 札幌村では許士善太郎が就任したが、彼は丘珠の有力な地主であり、大正五年六月以来村議をつとめ、十二年四月には札幌村農会長に就任し、地元出身の村長として期待をもって議会で選出された。諸町村にて村議から村長に選出されたのは彼が初であった。昭和三年六月二十四日にも満場一致で再選されたが、同年八月十一日に実施された道会議員選挙にも当選し、村長を兼任することとなった。しかし、四年九月に公費費消に関する業務上横領と私文書偽造行使で公判に付され、九月二十一日をもって村長を辞任した(北タイ 昭4・10・2、30)。その後、後任村長の選出には難航したらしく、永らく不在の期間が八カ月も続いた。村会議員選挙後の五年六月十二日に村長選挙が実施されたが、元札幌警察署長で村議であった井山顕親収入役国安徳五郎が九票ずつのまったく同数となった。しかし同票は年長者優先の規定により井山顕親が就任した(北タイ 昭5・6・13)。この村長選挙は村会を二分しただけに後遺症が残り、後に定品助役の不信任動議が出され辞任している。このような政争を経ただけに、次の村長選挙となった九年七月七日の議会では、満場一致をもって元札幌土木事務所技手であった藤木与次郎を選出して(北タイ 昭9・7・11)、村内のしこりを解消していた。藤木村長は二十一年二月七日まで在職した。

写真-7 大正13年に一級町村となった札幌村役場
庁舎
は大正15年に新築された(現・東区北13条東16丁目)

 白石村は、昭和七年六月一日に一級町村となり、九月九日に鈴木武良を名誉村長として選出しスタートしたが、村政は混乱していた。凶作による救済土木工事の実施により、基本財産の支消、起債などのため村財政は逼迫していたが、これが原因となる議会との対立により鈴木村長はわずか二カ月後の十一月十五日に退職することになった。後任には再び前村長の古瀬猛二が選ばれた。しかし、村財政の窮迫下にての村長の俸給・交際費・交通費の増額をはかったことが不信をかい、九年四月十二日に糾弾村民大会が開催されたりしていた(北タイ 昭9・4・12)。古瀬村長は十一年十一月での改選に際し、年度内辞任を条件として再選されたようであったが、その不履行によって十二年二月二十八日の村議会にて、不信任案も提出され五月に至り辞任することとなった。しかし、後任村長も三人の候補者をめぐって選出に難航し、なかなか決定をみなかった。この間、「数年に亘る村の悪弊紛糾を新理事者の決定によって一掃せんと待望してゐ」た村民からは、長引く村長選考と村議の密謀政治に批判の声も上がるほどであった(北タイ 昭12・5・31)。二カ月を経過した七月二日の村議会にて村議の鷲田弥太郎(厚別居住)に決定したが、この選挙そのものも鷲田派の支持議員によって強行されたものであり、得票数八票、無効三票、棄権九票であった(北タイ 昭12・7・3)。待望の地元選出の村長であっても、この選出経過が反対派を激昂させることとなり、二度にわたり村政批判、村長排撃村民大会を招くこととなり、白石村の「難治村」はしばらく続くことになった。
 この対立は次回の十六年の村長選挙にも持ち越された。六月十三日の議会にて一〇人の銓衡委員が選ばれて指名推選することとなったが、銓衡委員会では三回の協議の結果、七月十九日の議会にて助役横辻亀次郎の推選指名を報告し、満場一致での賛成を求めてきた。これに対して鷲田弥太郎の再選を支持するグループは、「前村長ハ必ズシモ村民ノ輿論ニ反スルト言フコトモ聞テヰナイ」と、決選投票を主張したのである。決選投票については横辻支持グループは、非常時局の折に決選投票に持ち込めば、「村政ニ将亦(はたまた)団体ニ禍根ヲ残シ其ノ類ヲ及ボス処大ナルコトアルベキ」と述べ、しかも「石狩支庁長ニ於カレテモ又警察情報係ニ於カレテモ真ニ本件ノ平和裡ニ然モ速ニ決セラルベキ事ヲ希望セラレテ居ル」と回避を図っていたが、結局、決選投票が実施された。その結果、一〇票対八票で横辻亀次郎の村長当選が決まった(白石村昭和十六年村会議決書及会議録)。なお、横辻村長は二十年の改選では七月二十日の議会にて満場一致で再選されている。白石村は本村と厚別方面との軋轢が何かと多いところであり、議会での村長選にも影響を及ぼしていたようである。
 藻岩村では、元村長で篠路村長を経て白石村長に就任していた佐藤正三郎を迎えたが、この輸入村長に対して地元からの選出を望む声も強く、村の元老であった上田万平(大正六年に襲名した二代目、旧名勇)を推す動きもみられた。これは村財政の負担を考慮して有給の村長ではなく、無給の名誉村長という問題とも関連していた。しかし、上田万平の固辞により昭和六年七月に佐藤正三郎を満場一致で決定した。藻岩村は急速に都市化を迎えていたところだけに、その後も村長の人選をめぐる政争は甚だしかった。