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タコ部屋存続

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 北海道名物とされるタコ部屋(土工夫を監禁状態で使役する)は、札幌においても明治中期から存在していたが、大正中期になると、いたるところの工事場に出現した。
 とくに定山渓鉄道の工事場には、タコ部屋が軒を並べていた。タコ部屋改善政策が開始された大正末期になっても、タコ部屋は減少せず、豊平川水系発電所工事には、多くの労働者が虐待の犠牲になった。
 大正末期に工事が開始された札幌温泉の建築工事も、タコ部屋の労働者によって進められた。温泉の工事が進められている場所は市民の散策地であったから、多くの市民がタコ部屋のリンチを目撃し、タコ部屋の恐ろしさを知った。
 札幌温泉の工事場では、警察官も暴力の犠牲になった。大正十三年九月には、円山駐在所の巡査が土工夫によって暴行を受けた(北タイ 大13・9・9)。また同年八月には、定山渓工事場の請願巡査が土工夫に襲われ、負傷した(北タイ 大13・8・4)。

写真-8 札幌小樽間土木工事作業風景(昭6)

 土工部屋の虐待、酷使は、土工部屋改善を目的に結成された「北海道土工殖民協会」(昭7・6・23発足)が活動を開始した昭和期に入っても改善されなかった。昭和九年十月に着工され、十一年夏まで行われた藻岩山の発電所工事でも、多くの土工夫が酷使の犠牲になった。表2は、大正七年から昭和十二年の間において、土木工事に就労するため他所から札幌各地区に入りこんだ土工夫の数を示したものであるが、十年に藻岩村に入りこんできた土工夫数は、実に三六四六人に達していた。この三六四六人のすべてが発電所工事に従事したわけでないが、藻岩発電所工事が札幌始まって以来の大工事であったことがわかる。
表-2 札幌における入込土工夫数

場所

札幌篠路村
札幌
平岸村手稲村豊平町白石村藻岩村琴似村
定山渓平岸豊羽鉱山一ノ沢藤ノ沢下砥山簾舞
大正 7112人300人385人65人
   83720253236
   94548119
  103093215
  11361905
  126201175
  135056520889
  141,410378
  1583308
昭和 251568365
   35115393
   4102729182
   515237
   6166
   7
   8556
   9
  10712734643,646
  11
  1217515218
北海道開拓殉難者調査報告書』より作成。

 藻岩山麓には数十のタコ部屋、信用部屋が立ち並び、日本語、朝鮮語が乱れとんだ。多数の朝鮮人土工夫が就労していた。日本人土工夫と朝鮮人土工夫は、しばしば民族的反感から対立し、十年十二月四日にはあわや乱闘騒ぎが起こるところであった。十年六月十三日には九人が崩落のため生き埋めになり、四人だけが救出された。犠牲者のなかには、朝鮮人が混じっていた。
 少年の頃、この工事現場で測量手伝いをしていたある人は、知り合いの土工夫が、くたびれて休んでいるところを幹部に発見され、小便を飲まされた上、埋め戻し場に投げこまれ、上から土を積まれて死亡した光景を目撃した。地元の人は、幾人ものタコが逃亡する有様を見た。
 昭和十年十月十日の『読売新聞』は、藻岩発電所工事のタコ部屋から脱出して、徒歩で神戸に帰った土工夫の談話を掲載した。北海道土工殖民協会は「針小棒大」と反論した(北海道土工殖民協会新聞 第七一号 昭10・10・21)。
 タコ部屋は、戦時下になると労働力不足から、むしろ増加していた。北海道土工殖民協会は、北海道労働福利協会と改称(昭13・10・27)し、かつてプロレタリア文学運動に参加していた佐藤俊夫中田吉雄を書記にして、労働現場に派遣したが、具体的な改善運動をしなかった。大正中期以来、タコ部屋改革運動を力説していた井田菊蔵は、昭和十五年八月に、当別の山の中で転落し気を失っていたところを朝鮮人に発見され、付近の農家にかつぎこまれたが、二十九日に七四歳の生涯を閉じた(労働福利 第二三二号 昭15・9・10)。
 タコ部屋生活は、太平洋戦争期になると軍隊式となり、軍歌を強制された。山歌と呼ばれた民謡は禁止された。