この大政翼賛会北海道支部の北海道文化委員会の理念部小委員会で、北海タイムス社の河野広道と谷口国次、そして北海道帝国大学の高倉新一郎の三人が、「北海道文化確立の理念」を「協議決定」する(民芸 昭17・2月号)。十七年一月には、パンフレット「北海道文化建設の根本理念とその方策」として印刷される(北タイ 昭17・1・14~16にも掲載)。このパンフレットは、道内一四支庁の支部単位で、翼壮団員・教育宗教関係者を対象とした文化講座のテキストとなった(下中弥三郎 翼賛国民運動史)。
明治以後の中央文化や都市文化と言はれるものが、輸入文化をその儘に受け入れたために、消費部面に強く発達し、享楽的な色彩を濃く持って居たのに、地方文化は常に生産と生活から離れる事なく、人の心の奥底に横はる美しく尊いものを失はずに来たと言ふ意味である。
ここでは、欧米に由来する都市の消費文化に対する批判が述べられ、それに対置する生産や生活に根ざした「地方文化」が推奨される。
「北海道文化の条件」として、北方寒冷な自然、北鎮の基地としての責務、豊富な天然資源をあげ、「確立さるべき北海道文化」としては、北方生活に適合した衣食住および生活態度、アメリカとソ連に近接する地理的条件からくる国防的な意義、豊富な自然資源を背景とする鉱工業をはじめとする戦時産業の確立といった目的に貢献する文化建築を提唱する(同様の主旨が札幌市翼賛壮年団の「北海道文化確立の根本理念」〈文資〉や、河野広道「北海道文化確立の根本理念」『民芸』〈昭17・2月号〉にもみられる)。
昭和十六年五月に創刊された『北方文芸』は、その創刊時から北海道文化、北方文化論を展開する。『北方文芸』の標題を拾うと、林容一郎「北方的性格について」・吉田十四雄「北海道的なもの」(創刊号)、伊藤秀五郎「文化の伝統」・山下秀之助「生活文化の芸術面」・特集「北方人としての文学翼賛」(第二号、昭16・10)、高倉新一郎「北海道文化の特徴」・特集「北海道文化の現状」(第三号、昭16・12)。第四号には、谷口国次「新文化創建の主体性」・伊藤秀五郎「北海道の文化的使命」、および高倉新一郎・谷口国次・山下秀之助・関口次郎・古宇伸太郎・河野広道が作成したパンフレット「北海道文化建設の根本理念とその方策」をめぐる座談会「北方の文化を語る」(昭17・5)が掲載された。
『さとぽろ』の同人としてかつてモダニズムの先端にいた北大予科教授伊藤秀五郎は、「近代欧洲文化の骨格をなす合理主義、科学主義」を批判し、北海道の地方文化建設と国民道徳の高揚、皇国民の錬成を説く。伊藤が、「キリスト教的世界観に基づく西洋的文化」を否定しかつ都市文化を否定することは、地方文化運動をめぐるこの時期の思潮である(北海道の文化的使命)。また昭和十年に治安維持法で弾圧され、北大の昆虫学教室を追われた河野広道は、座談会の中で、「大東亜戦争」を「米英の自由主義との戦争」と位置づけ、「自由主義的な英米的な世界政策といふものの中に生れた文化」との対決を説く。
昭和十七年一月九日には、大政翼賛会札幌市支部に札幌文化委員会が新設され、豊平館で第一回準備委員会が開かれる。そのメンバーは、静養院長阿部政三、北大予科教授伊藤秀五郎、上田歓子、平沢エシ、日銀札幌支店長川北禎一、札幌神社宮司北島邦孝、北海タイムス工藤昇、弁護士斎藤忠雄、札師附属主事斎藤武雄、音楽協会理事杉山正次、市立病院長林敏雄、市教育課長村上善彦、札鉄病院山下秀之助、市会議員藪務、道文化委員落合守平、同高倉新一郎、同谷口国次であった(北タイ 昭17・1・9)。「市民生活新体制」を目指す、札幌文化委員会は、文化講座の開設、妊婦援護運動、精神衛生運動、食生活合理化運動の四大運動を展開してゆく(北タイ 昭17・2・20)。
札幌文化委員会の文化講座は、十七年四月より毎月一回開かれた。最初は国民学校や青年学校の教員を対象とし、しだいに一般市民へと聴衆を広げていった。各回の題目は表1にあげたが、昭和十八年一月二十九日の北大予科教授今堀克己の「天体の話」(天体観測ほか数種の映画も上映される)には、入場無料(多数出席歓迎)の新聞広告が出されたが、一五〇〇人の聴衆が集まった(北タイ 昭18・1・29、札幌市事務報告)。文化講座の目的は、「過去の形式的な文化観念を打破して、真に日本精神に立脚した大東亜共栄圏確立のための文化昂揚」にあると報じられた(北タイ 昭17・4・12)。
また十七年八月三十日には、第一回北海道地方文化協議会が開催され、「尊くも勇ましき軍神加藤少将が、いみじくも発言したまへる偉大なる屯田兵魂」を北海道文化運動の根本精神とする申し合わせがなされる(第一回北海道地方文化協議会会議録)。この屯田兵精神のシンボルとなるのが、東旭川村の屯田兵村の出身で、十七年五月にビルマで戦死する加藤建夫である。同年八月二十日の北海道庁振興課編の『常会資料』一七は、「軍神加藤少将特輯(とくしゅう)」となっている。大政翼賛会から、北大教授上原轍三郎編の『屯田兵研究資料―戦力増強企業整備推進屯田兵魂錬成会―』という学習資料が作成され、黒田清隆の創設の建議や屯田兵村配置図、屯田兵の沿革などが掲載される。
この頃、「開拓七十年、開拓先人の労苦、当時の実状或は本道開拓史を貫く屯田兵精神等」を究めて、北海道独自の文化建設をするため、道庁立中央図書館の一室に、各種資料を収集保存する北海道文化館の設立準備が報じられる(道新 昭17・11・17)。
十七年十二月には、北海道文学報国会・北海道美術報国会・北海道音楽報国会・北海道演劇舞踏報国会をたばねる、北海道翼賛芸術聯盟が発足する。
『北海道新聞』十七年十二月十五~十八日付に連載された「翼賛芸術連盟座談会」には、翼賛会道支部錬成部長三上弘之・同部員小田邦雄・文学報国会山下秀之助・高橋次郎・加藤愛夫・美術報国会能勢真美・音楽報国会森善次・演劇舞踊報国会中村揚・勇崎正次が出席する。座談会は、錬成部長三上の、屯田兵精神を発揮するには、芸能関係に携わるものが横の連絡と縦の系統機関との両者の動員が必要、との発言にはじまる。能勢は「北海道の郷土の美しさ、郷土の生活、郷土の精神」といったものを見つめる美術の運動を、中村は「神の祀りの日とか国や村の記念日とか工場、会社、学校等それぞれの祭典の時に演劇」を上演してゆきたいといったように、それぞれの分野での翼賛運動が語られる。
十七年十二月一日には、北海道新聞社に北方研究室が設置され、「本道を名実共に日本民族の北進地たらしめる」ことなどを目標とし、河野広道・関口次郎(筆名二郎)・谷口国次などが中心メンバーとなる(桑原真人 北海道新聞社旧北方研究室について)。
戦時期の文化運動は子供達にも及び、十七年七月四日に、「立派な少国民」をつくる札幌少国民文化協会が発足し(北タイ)、十八年二月二十三日から二十五日の『北海道新聞』(夕刊)に「少国民の文化運動を語る」が連載され、童話家の久留島武彦、札幌少国民文化協会の佐藤苗穂国民学校長、藤田札幌師範教諭、森札幌市教育会主事などが、子供達に民族意識の高揚を説く。また十八年五月二十六日には札幌の興行界を「国策協力の娯楽機関」たらしめるべく大日本興行協会札幌支会が発会する(道新 昭18・5・27)。