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林竹治郎とその門下生

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 明治四十年(一九〇七)十月に、文部省美術展覧会(文展)がはじまる。第一次西園寺内閣の文相牧野伸顕が、美術の価値の規範を国家が定めるフランスのサロンのあり方を日本において実践したものである(日展史 1)。ここに官展がはじまり、「各流各派を総合した制作発表の場として、また新人登竜門的役割も果たし」(近代日本美術事典)、美術は社会と接点をもちはじめる。北海道において公募展は、大正十四年(一九二五)の道展をもってはじまり、美術の価値の創出とその社会への影響があらわれる。
 その歴史的な第一回文展に、北海道の美術界に俊英を育てる林竹治郎が〈朝の祈り〉を入選させる。林竹治郎は、東京美術学校特別課程を卒業し札幌師範学校の教師を経て札幌一中の図画教師となった人物である。
 札幌では、芸術活動の担い手として、中学校や女学校などの図画教師や音楽教師の役割が大きい。東京女子美術学校を卒業して庁立札幌高等女学校の図画教師に着任した日本画の平沼深雪、東京美術学校日本画特設科を経て北海道師範学校助教諭として赴任し野馬会を指導した菅原翠洲。音楽では女学校にしか科目がなかったが、庁立高等女学校教師のピアノの鈴木清太郎、市立高等女学校教師のソプラノの横尾雪子(ともに東京音楽学校出身)、といった人々である。
 林竹治郎は、明治三十五年七月から大正十五年三月まで、札幌一中の図画教師を勤めるが、札幌一中からは、長谷川昇(春陽会創立会員、日本芸術院会員)、能勢真美、今田敬一澤枝重雄池田雄次郎(以上道展会員)、山田正(国画会同人)、三岸好太郎俣野第四郎(春陽会出品者)、久保守(国画会会員、東京芸大教授)、小山昇(自由美術家協会会員)、岡部文之助(独立美術協会会員)といった画家を輩出した。林は明治三十八年十一月、札幌中学を退学して東京に出奔する中原悌二郎(日本美術院同人)の「天分を認めて、これからは洋画の時代がくるのだと、大いに激励」した(匠秀夫『三岸好太郎』)。
 匠秀夫は、「大学に進み、官界や学界に向かう生徒の多い札幌一中で、大正期のように画家志望者の続いた時期はほかに見られない」と述べている。また鈴木正實は、林竹治郎という指導者の「キリスト教的精神風土」の中に、北海道の洋画の短期間の〝飛躍〟の原因を指摘し、林の「基礎的技術」指導の中から、俣野第四郎三岸好太郎久保守といった確かな写実表現の担い手が育ったことを指摘する(キリスト教的精神風土と北海道の洋画)。
 林竹治郎は自らの教授における方針を、
第一作法の順序、形態の拘取、原則的陰影法等に依る成形能力を基礎として、これに線と色と濃淡に対してはたらく整斉、統一、変化、脈略、概括、調和等心理学上に認められて居る諸法則の領得に依る構成能力と、以上二種の能力に対する理解と練習

にあるとする。また札幌一中出身者について、「形似賦彩一と通りの観も整ひ、一見大過のない体容を具して所謂一の安定の上に立て居る所作であることは、強ち親の贔負目のみではない」との感想を述べている(黒百合会回顧録 昭6)。
 黒百合会が、後期印象派やモダニズムの先端である二科会の紹介をつとめたのに対し、同時代において林は門下生が時代の思潮をうけて羽ばたく、その写実という基礎を作ったといえる。