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第九軍団の進駐

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 予定どおり、十月四日の函館につづき、五日早朝から第九軍団第七七師団が小樽に上陸、すぐに札幌に向かった。その「日本軍事占領・月例報告書」によれば、「第七十七師主力は、十月四日夜、小樽沖の洋上に停泊、待機。五日朝七時過ぎ、偵察部隊・MP・設営部隊・付属工兵隊から成る先遣兵力がまず上陸、次いで主力部隊がHアワー(八時)舟艇で、上陸を開始した。Hアワー直後、輸送船団が埠頭に接岸、揚陸に入った。日本側の協力はあらゆる面で完全であり十月五日十八時(午後六時)までに、八二四九人、車両一〇〇三台、三一六九トンにのぼる貨物が上陸した」。そして、第九軍団機関紙によれば、「一発の銃声も聞こえなかった。日本人は従順で協力的であった」(証言 北海道戦後史)。
 午前十時過ぎ、最初の四台のトラックが北一条から入り、中島公園内の北部軍管区司令部に向かった。手稲追分まで出迎え、先導役をつとめた札幌署のある警部は、「地面が揺れ動くほどのごう音をとどろかせ、重装備の車両群が延々と列をつらねてやってきた」と回想する(私たちの証言 北海道終戦史)。

写真-2 北1条通りを進む進駐軍77通信隊

 十一時には、北海道拓殖銀行本店新館に先発隊のジープが到着、第七七師団のブルース少将と幕僚がつづき、その司令部とした(日本側の終戦連絡事務所も同所に移った)。のちに二号館の半分も接収された。やがて正面玄関の上には、第七七師団を象徴する「自由の女神」像が飾られ、屋上には星条旗がはためいた。
 東北・北海道地区の占領を指揮する第九軍団の司令官ライダー少将は札幌逓信局に入った。その後、市内の主だったビルのほとんどは接収され、さらに北大低温科学研究所、苗穂の糧秣支廠・陸軍兵器廠、月寒の兵舎・陸軍病院などの施設、駅前の山形屋旅館や定山渓温泉の旅館、三越百貨店なども接収された。松竹座はマックネア劇場と改称された。高級将校の宿舎として、洋風に建てられていた個人住宅も接収された。十一月一日現在で、全道では二三五件、札幌では九五件の建物・土地が接収されている(私たちの証言 北海道終戦史)。
 こうして続々と占領軍の進駐が進み、ほぼ二カ月後には全道で約二万四七六〇人に達した。その後、「逐次帰還或ハ退道」した結果、二十一年一月二十六日現在、全道で一万六四二五人を数え、札幌では五二三〇人となっていた。グランドホテルなどの将校宿舎を除き、部隊が入っているのは一八カ所で、なかでも大量に収容しているのは、元月寒兵舎に第七七師団の歩兵連隊二三八〇人、元千歳航空隊に米第五航空隊の一〇〇〇人であった(以上、長官事務引継書 昭21)。
 日本側の「渉外警察」では「各地部隊トモ殆ンド正規ノ隊行並ニ訓練等ナク、兵舎内外ノ整備強化、積雪路ノ交通保全(除雪)ニ主力ヲ注キ居ル状況」と観測していた(長官事務引継書 昭21)。
 昭和二十一年になると、五月に総合運動場、六月に体育会館中島公園水泳場が接収された。(表1)
表-1 占領軍接収建物
接収建物名用途
拓銀本店第七七師団司令部
拓銀頭取公宅高級将校住宅,アメリカ領事館として売却
拓銀役員宅全部高級将校住宅
大同ビル特殊参謀部,軍政部
清水ビル特科隊本部,司令部付中隊
越山ビル特科隊,憲兵隊
グランドホテル高級将校宿舎
札幌逓信局第九軍団司令部,病院
商工会議所ビル憲兵隊本部
鉄道クラブ清和寮上級将校宿舎
帝国生命ビル上級将校宿舎
第一師範通信大隊
北星学園病院
北大低温科学研究所衛生大隊
札幌連隊区司令部憲兵小隊
桑園工廠偵察隊
北部憲兵司令部工兵大隊,通信中隊
苗穂糧秣支廠経理中隊,科学研究小隊,爆薬処理部隊
陸軍兵器廠兵器弾薬中隊
月寒兵舎混成師団
商業組合中央金庫高射砲俘虜中隊
松竹座,雪印乳業冷蔵庫,独立教会,三井クラブ,定山渓鹿の湯ホテル,三越,小林ビル,富国ビル,朝日生命ビル,伊藤豊次邸,斉藤甚之助邸,西鷹二邸,古谷邸,笠原邸,札幌鉄道集会所,藻岩山小屋,パン屋,競馬場,円山公園中島公園池,中島公園プール,藻岩スキー場,モータープール
『私たちの証言 北海道終戦史』(毎日新聞社 昭49),『長官事務引継書』(昭21,2 道文1737),道新 昭27,3,7,7,14より作成。
表中上段は利用団体が判明しているもの,下段は不明または娯楽用など。