『道庁統計書』が庁内各部および所轄官衙,ならびに郡区役所から徴集した材料をもとに編纂されていたことは前述した通りである。ここでは,札幌区役所が上級機関に対して,どのような手段で統計材料を収集し,報告していたのかを,開拓使時代にさかのぼって述べておく。1872年(明5)の戸籍作成にともない,市在(札幌市中・村落)には開拓使の末端機関として戸長,副戸長が置かれ,それらが戸籍作成を管掌し,あわせて人民を統轄する役割を担っていた。1878年(明11)7月郡区町村編制法の公布に基づいて,北海道でも開拓使は従来の大小区制を廃し,新たな地方行政機関として郡区役所の設置をみた。翌79年7月札幌市街と札幌郡一円を管轄として,札幌区役所が設置され,札幌区長が札幌市街(区)とともに札幌郡の事務を取り扱った。同年10月には従来の大小区制に付随する戸長・副戸長が廃止され,1880年2月新たに札幌区に7人の戸長が配置された。札幌の周辺村は①山鼻・円山②琴似・発寒・上手稲・下手稲③豊平・上白石・白石・平岸・月寒④札幌・雁来・苗穂・丘珠・篠路⑤対雁・江別の5ブロックに分けられ,一人の戸長が数カ村の戸長を兼ねた。
1879年7月23日,「郡長以下職制」が制定され,郡長と戸長の職務内容は次のように定められた
(以下抜粋)。
郡長 八等相当 一人
第二 郡長ハ事ヲ本支庁長官ニ受ケ法律命令ヲ郡内ニ施行シ一郡ノ事務ヲ総理ス
第五 郡長ハ町村戸長ヲ監督ス
戸長職務概目
第二 地租及諸税ヲ取纏上納スル事
第三 戸籍ノ事
第四 徴兵下調ノ事
第五 地所建物船舶質入書入並売買ニ奥書加印ノ事
第六 地券台帳ノ事
第七 迷子捨児及行旅病人変死人其他事変アルトキハ警察官ニ報知ノ事
第八 天災又ハ非常ノ難ニ遭目下窮迫者ヲ具状スル事
第九 孝子節婦其他篤行者ヲ具状スル事
第十 町村ノ幼童就学勧誘ノ事
第十一 町村内ノ人民印影簿ヲ整置スル事
第十二 諸帳簿保存管守ノ事
第十三 河港道路堤防橋梁其他修繕保存スヘキ物ニ就キ利害ヲ具状スル事
右ノ外本支庁長官又ハ郡区長ヨリ命令スル所ノ事務ハ規則又ハ命令ニ依テ従事スヘキ事其他町村限道路橋梁用悪水ノ修繕掃除等凡協議費ヲ以支弁スル事件ヲ幹理スルハ此ニ掲ル所ノ限ニ非ス
(市史第7巻史料編2)
このように戸長は郡長の監督下におかれ,戸籍の作成をはじめ,町村内の景況全般にわたって掌握する立場にあった。
札幌市街と札幌郡一円を管轄とした札幌区役所は,そのまま札幌県に受け継がれたが,急速な人口増加と開拓の進行にともない,それまでの行政区画では県政上支障が生じてきたとして,札幌県令は内務卿に石狩国郡区改正を要請した。これを受けて1884年(明17)4月1日札幌区役所は市街である札幌区だけを管轄として独立し,札幌郡は札幌区役所の管轄から離れ,諸村は札幌郡役所の管轄となった。また同年地方自治制度が改正され,戸長役場の管轄区域が拡大され,札幌区及び石狩郡外8郡の中では,札幌区大通東各町外13カ町戸長役場,札幌区大通西各町外8カ町戸長役場,札幌区南3条西各町外4カ町戸長役場が同年6月30日限りで廃止された。これにともない戸長の事務は郡区長が取り扱うこととなり,末端の統計報告機関は,戸長役場から郡区役所に変更された。同年7月1日札幌区役所分課章程が改正(坤第78号)され,区役所には庶務課,戸籍課,勧業課,出納課,租税課,学務課の6課が置かれた。各課の職掌にはそれぞれ「本課ニ属スル諸表調製ノ事」の条項が設けられ,統計報告は一般行政事務の一部となった。
統計表編纂の開始
1886年(明19)北海道庁が開庁し,翌年5月9日「北海道庁庶務細則」によって道庁の分課組織が定められ,5月10日には郡区役所の分課分掌が定められた。これにより,区役所の統計業務は第一課の職掌となった。道内の郡区役所で統計表が作成されるのは,函館が1881年と突出して早いが,明治20年代に入ると,他の地域でも統計表が編纂され始める。たとえば『松前郡役所統計書』(1887年),『根室花咲野付標津目梨国後色丹得撫新知占守郡役所統計概表』(1890年),『浦河沙流新冠静内三石様似幌泉郡役所統計概表』(1891,92年)のほか,札幌区役所でも『明治廿一年札幌区役所統計概表』(1889年3月刊),『明治二十二年札幌区役所統計概表』(1890年12月刊)が作られた。1889年4月に施行された市制・町村制は,明治立憲体制下に地方自治体としての地位を確立したといわれるが,北海道には適用されなかった。したがってこれら統計表の編纂については,郡区役所による独自の活動というよりは,上級行政機関の指令によるものとみるのが妥当であろう。しかし札幌区では,統計表の編纂に先だって,区長を発起人とした統計学研究会が設立されており,統計を区政に何らかの形で活かしていこうとする意図がうかがえる。そこで以下では,統計学研究会と『札幌区役所統計概表』との関連について述べておく。
統計学研究会が1887年4月札幌に設立されたことは前述した。発起人は区長の浅羽靖であり,毎月第一土曜,第四木曜の二回札幌区役所で行うこととし,講師は道庁職員の水科七三郎が務めた。彼は86年1月共立統計学校を卒業し,同年12月道庁根室支庁に赴任し,翌年2月からは道庁第二部地理課に勤務していた。
共立統計学校は,1883年に太政官統計院職員有志によって,統計学の普及と後進の養成を目的として創設された民間の統計教育機関である。同校の創立者である杉亨二は,わが国における最初のドイツ社会統計学の紹介者であり,1871年12月24日太政官正院政表謀の設置とともに,杉がその主任となって維新政府の統計事業が始まった。彼が提唱したstatistik/statistics(統計)の先進性は,統計を学術上の方法ととらえたことと,調査票形式によるセンサスを目指した点にある。彼の統計思考は,彼の教えを受けた統計家達に受け継がれ,日本の統計調査の歴史において,近代化を推進した一潮流をなしていく。水科もまた,共立統計学校で杉の教えを受けた統計家の一人であった。札幌で統計学研究会が発足した同じ時期,中央では杉の流れをくむ統計家達の間で,市制・町村制の公布にさきがけて,地方に統計思想を普及させようとする活動がにわかに活発になっていた。
たとえば1887年8月呉文聰は,地方の統計官僚へのテキストとして『統計詳説(一名社会観察法)』を出版し,翌年6月にはこの下編にあたる『応用統計学』を出版していた。これらは当時,統計学に関する書物としては,箕作麟祥の翻訳による「統計学」と津田真道の翻訳による「表紀提綱」の他にはほとんどなかった時代にあって,全国に向けて統計学を宣伝するのに大いに役立ったとされている(『呉文聰著作集 第3巻』)。また1888年5月,彼は「市町村制ヲ読ム」,「今日ハ統計事業拡張ノ時期ナリ」(『呉文聰著作集 第2巻』)と題する論文を執筆し,自治体としての市町村は,まず戸籍調査とは別の正しい人口調べを行い,正しい財産収支を把握して行政の基礎にするべきであると説き,これを機に,統計材料の調査方法を重視した統計学を普及させようと主張していた。さらにはまた,1889年2月には呉文聰,横山雅男,河合利安が「経済統計社」を設立し,町村自治のためには経済学と統計学の普及が必要であろうと,機関誌『経済及統計』を創刊していた。
市制・町村制(89年施行)は北海道には適用されなかったが,札幌区民は同法の適用を求め,本州同様の地方公共団体となることを強く願った。区長の浅羽靖は,区有財産の乏しきを憂い,区内および琴似の学田地,豊平の墓地等を払い下げ,区有財産に編入したことで知られる(『北海道拓殖功労者旌彰録』1919年)。区独自の事業を拡大しようとすれば,増収が必要であることはもちろん,区内の実情を細密に把握することが急務である。市制・町村制を背景として統計学研究会が発足し,統計書の編纂が進められたのは,浅羽施政の下で自治体としての政策が意識されていたためではなかろうか。札幌においては,水科を通して中央の統計学界の動向が,いち早く紹介あるいは導入されていた可能性が考えられる。1888,89年の『札幌区役所統計概表』は,浅羽区長が統計学の素養ある道庁職員水科を得て,はじめて実現させた自治政策の産物であったといえる。
統計学研究会
1930年(昭5)4月国技館で行われた北海道博覧会を視察した水科(1898年道庁退職,当時拓殖大学専門部の統計学講師)は,1887年に設立した統計学研究会を振り返って「是れは北海道に於ける統計講習の最初である許りでなく,恐くは全国に於ても最古きものヽ一であるまいか」(「北海道博覧会を見て」『統計学雑誌』第527号)と回想している。全国各地で地方の統計講習会が開かれるようになるのは1900年(明33)以降であることから,札幌の統計学研究会は全国に先駆けること十有余年の画期的な試みであったといえる。
研究会の目的として「一 統計学が施政上に必要であることは論をまたないこと,二 戸長集会の場合には臨時講師を招き講演を行い戸長等にも聴聞させ施政上の裨益を計ること,三 統計学の研究を志すものは照会の上就学できること,四 他官衙もしくは民間においても有志者は加入できること」(道毎日 1887.10.2)が掲げられていた。このように研究会は,区役所以外の官衙もしくは民間においても有志者には広く門戸を開いていたが,ここで重要なのは,とくに戸長等への効果が謳われていることである。目的が報道されたのは同年10月であるが,これより先6月から8月にかけて,水科は1区役所9郡役所,50戸長役場を巡回し,各地で見聞した拓殖状況を『スタチスチック雑誌』(第18号 1887.10)に報告している。
…事物ノ表裏ヲ能ク観察スルハ「スタチスチック」ノ大切トスル所ナリ。去レバ或ル「スタチスチック」ハ如何ナル人ガ如何ナル方法ヲ用テ事実ヲ蒐集,分類,排列,調査シタルカヲ知ルハ最必要ニシテ,之ニ由リテ其価値モ定マリ信用モ生ズルモノナリ。果シテ然ラバ「スタチスチック」ノ材料ヲ蒐集スルノ第一位ヲ占ムル所ノ初集者ニシテ十分ノ精密ト注意ヲ要セザレバ中集者終集者ハ時ニ或ハ数字ノ奴隷トナリテ唯算盤上ノ精密ヲノミ究メ,実事ニ対スル求心力,遠心力如何ヲ顧ミザルニ至ランヲ恐ル。故ニ余ハ今日官府「スタチスチック」ノ材料ハ如何ナル人ガ事実ニ最接近シテ調査スルヤト尋ヌルニ,他府県ハ詳知セズ我北海道ニ於テハ郡区役所,戸長役場ノ郡区書記,雇,筆生等其任ニ当ル。勿論右ノ地方役所ハ俗務繁劇殊ニ北海道ニハ人員稀疎ナルモ分任夥多ナルガ為メ「スタチスチック」上ニ十分ノ力ヲ尽シ難キ事情アリ…
このように水科は,「スタチスチック」の材料を収集する「初集者」すなわち末端の報告者が,統計数字の精粗を分ける最も肝要な立場にあることを心得ていた。そして郡区役所戸長役場を巡回した折に,北海道においてはその任務にあたっているのが郡区役所の郡区書記,雇,戸長役場の筆生であることを知った。そのために研究会の目的には,とくに戸長等への効果をねらいとする条項が盛り込まれたものと思われる。
統計表編纂の定着
1887年札幌区役所の統計学研究会,1890年道庁第二部の農商務通信協議会及勧業統計談話会で,水科が統計学の普及に努めたことは前述した。このほか彼は北海道学友会でも統計学の普及を行った。同会は1887年11月「学術ヲ研究シ実力ヲ養成シ国家ノ富強ヲ図ルヲ以テ目的」として創立された。89年11月水科は北海道学友会に入会し,第54,55回両通常会で次のように述べている。
「スタチスチック」とは世に謂ふ所の統計なり然れとも統計の訳字甚だ不当にして其意義を誤るの恐なしとせす何となれは統計なる漢語は正に英語のSum又はTotalに当り合計統計と同しく「シメル」と云ふ意を含蓄するのみ是れ豈「スタチスチック」の本意ならんや…「スタチスチック」の大綱とは何そ一言以て之れを掩へは学と術の二つに過きす別言せは学問と方法なり方法とは人間生活上に発顕する事物全体の観察を為すを云ひ学問とは人間生活上に発顕する事物の成果を表彰し其原因を探討し天理の存する所を開明するを云ふ…
(北海道 第8号 1889.11)
こうして北海道においては,水科によって官民各方面へと,統計を学術上の方法ととらえる「スタチスチック」すなわち統計学の普及活動が始まった。その結果,88年以降スタチスチック社(在東京 1892年1月統計学社と改称)には道内の統計実務担当者が入会し,機関誌『スタチスチック雑誌』(1892年1月『統計学雑誌』と改称)によって,統計に関する情報を得ようとする動向がみられ始めた。札幌区役所書記兼札幌外4郡役所書記の波津久作太も1891年時点(入会脱会年月は不明)ではスタチスチック社に在籍している。また前述したように,『道庁統計書』は1894年以降,迅速な報告による最新の数値を掲載する方向へと改善されていた。
1899年(明32)10月1日北海道区制に基づく札幌区が誕生した。区に対する道庁の指揮監督権はきわめて強かったものの,札幌区は区行政と区財政は自らが執行していく自治権を獲得した。1900年3月「区吏員庶務規程」(札幌区例規類纂 明治33年版)が定められ,「文書ノ往復記録編纂統計報告ニ関スル事項」は,第一課庶務係の職掌となった。これ以降,区会内には常設委員会(1901年),土木委員会(03年),勧業委員会(06年)など各種の委員会が置かれるとともに,区政の調査が進められた。
1906年9月北海道物産共進会が開催された。同会は農業仮博覧会を前身とし,1878年を嚆矢とするが,1906年共進会は,01年(明34)から遂行されていた園田安賢北海道庁長官による北海道十年計画の下で,人口の急増と各種生産物価額の増大等,北海道経済が飛躍的な発展を遂げる中で行われ,総経費,出品数ともに過去に群を抜いて大規模なものとなった(新北海道史 第3巻通説2)。札幌区では,各府県からの賓客に贈呈するために,『札幌区状態一班』が編纂され(北タイ 1906.8.12),同年9月に刊行された。
日露戦争後,札幌は都市としての発展が嘱望されるようになり,そのためには現状を正しく把握する必要があるとして,1907年(明40)5月1日統計規程調査委員が組織された。委員長および委員には,書記技手等7人が当たり,統計調査の方法を整備するための調査が開始された(札幌区事務報告自明治39年lO月至同40年9月)。こうして同年9月には『札幌一覧』,1910年(明43)には『札幌区統計』,1911,12年(明44.45)には『札幌区統計書』が刊行され,1913年(大2)からは『札幌区統計一班』と名称を変え,統計書は継続して編纂されるようになった(表2~4)。
表2 札幌区(市)統計書の残存状況
戦後は1957,61,66年版『札幌市統計書』が出された後,1971年以降毎年刊行されている。
表3 札幌市勢要覧類の残存状況
1973年以降『札幌市政概要』は毎年刊行されている。
表4 町村勢要覧の残存状況
注1 1908年4月豊平村は豊平町に,1938年5月藻岩村は円山町に,1942年5月琴似村は琴似町に,1951年11月手稲村は手稲町に,1922年8月札幌支庁は石狩支庁に変わる。
2 要覧類の他に町村の統計数値を得られる資料として『手稲村史』(1911),『開町70周年』(豊平町1941),『とよひら90年のあゆみ』(1961),『白石村誌』(1921)がある。
3 1910年刊行『札幌支庁庁治一覧』には表題年が記載されていないため,対象年を記した。
札幌区区勢調査
このように,統計は都市計画政策上に不可欠の政策材料であるとの認識が定着するとともに,統計書の編纂も行政事業として定着したのであるが,同時に政策の指針となるべき調査研究が要請された。1907年2月札幌区では,のちに区勢調査顧問となる高岡熊雄に区是調査を委嘱した。1909年(明42)3月1日「区内各所帯ノ現在者並ニ一時不在者ノ経済的及ビ社会的状態ヲ調査スル目的ヲ以テ」札幌区区勢調査が実施された。高岡は,当時の当局者の置かれていた状況を次のように語っている。
札幌区ノ如キ都市設置計画後未ダ多クノ歳月ヲ経過セザル新開ノ土地ニ在リテハ,歴史ナク慣行ナク加フルニ其ノ住民ノ大部分ハ全国各地ヨリ来リ集リタルモノナレバ,互ニ風俗ヲ異ニシ習慣ヲ同フセズ。随テ区ノ行政ヲ施行スルニ当リテモ,採リテ以テ当局者ノ標準トナスニ足ルベキモノ少ナシ。サリトテ去テ則ヲ府県ノ先例ニ採ラント欲スルモ事情ノ異ナルアリ境遇ノ許サヾルモノアルナリ。是ニ於テカ施政者ノ羅針盤ト為シ得ベキ札幌区ノ区是ヲ調査決定セントハ夙ニ当局者ノ冀望ニシテ,又区民ノ与論ナリキ。
(高岡熊雄『札幌区区勢調査研究』1909年)
すなわち,札幌区の構成員の大多数が全国からの移住者であることが,行政施行者にとっては何を標準とすべきか皆目見当がつかないといった悩みを生んでいた。そのために,施政者の羅針盤となるべき区是調査の実施の必要性が叫ばれたのであった。札幌区より区是調査の委嘱を受けた高岡は,一旦は区是調査のための項目を準備したが,研究を重ねた末,経済的,社会的組織が複雑かつ変化の著しい都市の場合には,農村に実施されていた郡是,町村是調査に該当する区是調査よりも,民勢調査の方が有効であろうと,民勢調査の実施に到達した。民勢調査とは,のちの国勢調査を意味する言葉である。
調査項目は1,氏名 2,所帯主との続柄又は所帯主もしくは所帯主との関係 3,男女の別 4,出生の年月日 5,縁事上の身分 6,結婚の年 7,職業名およびその地位 8,読書力 9,「不具」の種類および原因 10,宗教 11,出生地 12,原籍地または国籍 13,来札の年 14,一時現在者の常住地 15,一時不在者 16,住地および住家の状態であった。調査原表は『札幌区区勢調査原表』前編・中編(1910年刊)・後編(1911年刊)の3部作総頁約700頁にまとめられ,刊行された。また1920年には高岡は札幌区の依頼を受けて『札幌区区勢調査研究』を発表した。自序に「本研究ニ依リテ調査区タル札幌区ノ実情ヲ明カニシ,併セテ我ガ国ニ於ケル新開都市ノ状況如何ヲ知リ,加之第一回国勢調査ノ実施及ビ研究ニ対シテ,多少ノ参考トモナルヲ得バ洵ニ望外ノ幸ナリ」とあるように,都市計画を開始して40年足らずの札幌区の生活事実の実態と他都市との比較,分析研究データを公表することにより,第1回国勢調査の参考に供しようとされたものであった。この調査は,札幌にとっては都市計画行政をすすめていく上で,重要な研究調査であったばかりでなく,国勢調査前史の地域レベルでの人口センサスとしても重要な意義をもつ調査となった(以上,海保洋子「明治期札幌における社会調査」『札幌の歴史』第23号)。
表5 『札幌商業(工)会議所統計年報』発行状況