[解説]

宮坂弥五左衛門古記録
元長野県立歴史館 青木隆幸

 「宮坂弥五左衛門古記録」(以下、「古記録」と略す。)は更埴郷土を知る会が刊行する『ちょうま』第二号で史料の存在とその概要が報告されたものである。寂蒔史談会は、「古記録」を『ちょうま』第三号に翻刻、掲載した。
 原史料は72頁の和綴本である。宮坂家一族の系図や、江戸時代の寂蒔村(現千曲市寂蒔)の主な出来事、神社、寺院、古史跡が箇条書き的に記述されている。宮坂家十代当主弥五左衛門が嘉永六年(1853)、34歳の折に編んだものという。いわば、家と村の年代記といえるものである。記述は詳細である。執筆にあたって、様々な史資料・伝承を参照したと思われる。この史料のなかに「戌の満水」の寂蒔地域の被害状況が記されている。
 「戌の満水」に関しては、流域の各地に古文書が残されているが、坂木代官所支配地であった寂蒔村には、当時の状況を伝える一次史料がなく、古老の言い伝えはあるものの、長いこと被害の実態がつかめなかった。「古記録」は犠牲者数だけでなく、洪水の発生日時、復興の過程なども記されており、寂蒔地域の「戌の満水」研究にとっては画期的な史料である。また、坂木代官所支配地の多くは上田藩領と松代藩領の境界部に位置するが、この大水害に関する史料がなく、研究の空白地帯になっている。「古記録」の発見により、小県から更埴にかけての千曲川水系全体を俯瞰する観点で「戌の満水」を論じることが初めて可能になる。
 とはいえ、弥五左衛門が「古記録」を執筆したのは寛保の洪水からすでに一世紀余を経過した嘉永六年である。また、「古記録」には事実誤認や宮坂家の歴史を誇張するような記述も散見する。洪水の記録もそのまま史実と見なすことはできない。
 そこで、史料価値を判断する上で根幹に関わると思われる数値二点に着目する。
 ① 八月朔日昼四ツ時分(8月1日10時頃)大洪水
 ② 水の深さは3.5メートル。流家65軒、潰家28軒、流死人158人。
 上田城下町に残る史料(「伊藤家文書」)によれば、この日上田地域の千曲川の水位が10時頃低下したという。滞留していた水が何らかの理由で一気に流下したからと考えれば、下流の寂蒔を10時頃に洪水が襲い160人近い流死者が出たとする「古記録」の記述と符合する。
 そして、この大洪水が、徐々に水嵩が増すタイプの洪水ではなく、突然、善光寺地震の塞き止めダム決壊同様、いわば津波のように下流域に襲いかかる性格の出水だったとすれば、白昼でありながら多数の死者が発生したことも頷ける。大量の漂流物を含むことで加速度が増加し、流速も破壊力も増す。十分な避難時間が確保できないまま、多くの住民が濁流に飲み込まれ溺死したのであろう。
 「戌の満水」における寂蒔地域の被害を、犠牲者数と災害発生時刻の二つの観点から検証した。結論としては、宮坂家十代当主弥五左衛門が嘉永六年に編んだ「宮坂弥五左衛門古記録」の記事は、水害から一世紀以上後のものではあるが、信憑性が高いと思われる。
 「古記録」の史料的価値はもう一つある。災害を記録する営みの大切さ、あるいは災害に関する伝承を語り継ぐことの大切さである。10年から20年前の災害の記憶でさえも人々の脳裏からたちまち薄れていく。災害史は100年200年のスパンで捉えなければならない学問である。その意味で、「古記録」に掲載された「戌の満水」記録は、今を生きる私たちに課せられた役割を考えさせる貴重な教材ともいえよう。