[現代訳]

八月一日に雨が降り出して千曲川が急に満水し、日暮れには押切の土橋に達した。夜中には松川満水して、小布施や六川・大島など一面へ押し入った。その時の水によって、押切の高札場近くの道が三尺から六、七尺ほど押し掘られた。
 二日の明け方には、松川の水の勢いは弱くなった。しかし、千曲川の水は思いのほか水位が上昇して、村々に押し入った。 羽場や押切では多くの家が屋根のグシまで水没したが、流されて死ぬ人はいなかった。
 やがて上流から家が押し流されてくるようになり、午前八時ごろ、山王島の西の方から屋根の上へ四、五人が乗ったままの家が流れてきた。押切から北東の小沼まで流されたところ、北から夜間瀬川が流れ込んできたので、さらに大熊、桜沢の前を南へ流れ、水の流れと風のかげんで再び押切へ戻された。それから山王島の北へ来たところ、またまた押切の方へ流されて来て、ようやく山王島押切との村境の柳の木にひっかかった。
 しかし、この大洪水では助けようが無い。流されてきた者たちは、「北岡に伝右衛門・徳右衛門はいるか」などと夜通し大声で助けを求めていた。
 三日の夜明けを待って、大島から舟を借り、ようやく助け出した。助けて聞くと、なんと牛島の者たちだった。それから、徳右衛門宅で二三日休ませてから帰した。
 さて、自分の家にも水が二、三尺入った。場所により一丈から二、三丈ほどの水位になり、水が引いたあとには二、三尺から八、九尺の泥が残った。
 また、上流は佐久郡から更級郡まで、全ての川が満水となった。下流は高井郡・水内郡は言うまでもなく、越後まで満水になるという、今までにないことであった。上流では流されて死んだ人が何人いるのか、四、五日の間は毎日五人、十人と数知れないほど千曲川を流れてきた。
 松村では家が押し潰されたので、高い所へ家を造り、その場所を新屋敷といった。松村の河原はこのときにできた。小沼は東山ぎわへ五、六軒がこのときに移った。草間も宮坂の上へ三、四軒がこの時に移った。牛出は千曲川端に村があったが、大水で家が流されたりしたので、今の場所に移った。
 これは、親から聞いた話である。