真田攻めの徳川軍が撤退した後のことだが、甲信の各地に上田合戦以前から駐在していた徳川の重臣たちが、十一月の半ばに突然遠州へ引き上げてしまった。これについて昌幸は、上杉景勝の重臣直江兼続に宛てた十一月十七日付けの書状で、「甲州・佐久郡・諏訪郡主に指し置き候平岩七之助(親吉)・芝田七九(康忠)、大久保七郎右衛門尉(忠世)、何れをも遠州に召し寄せ候由、如何様の相談致し候哉、存ぜられず」、目付けを遣わして様子が分かったら報告申し上げる、この趣を(景勝に)披露していただきたい、としている。
これは家康の幼時からの側近であった重臣石川数正が岡崎城を出て秀吉の下に走ったためだった。この突発事件に動揺した家康は、甲信の新領地に派遣していた諸将までも遠州に呼び返したのである。
これについて昌幸は、ほかでもない秀吉自身の十一月十九日付け書状で、事情を直接知らされることになる(8)。これによると秀吉は昌幸に、石川数正の一件で家康に表裏のある(表面と本心が違う)ことが明らかになった、よって家康を成敗することに決めたので、来春出馬するまでの間、信州と甲州の両国については小笠原貞慶・木曽義昌と諸事相談して落ち度のないように、などとも指示している。
家康の老臣石川数正のこの寝返りは、秀吉の外交上の成果といわれる。しかも、このとき数正は、松本城主小笠原貞慶の嫡男で人質として岡崎城に差し出されていた秀政を伴ってもいた。この件を北条氏直に報じた家康書状には「信州小笠原人質召連れ候」とある。この事実と先の小笠原の、やはり家康から秀吉への寝返り、それと前後しての真田の上杉従属、秀吉への接近という、信濃の両将の動きは大変よくできた話である。前にみたように秀吉は、この事件以前に昌幸に対し、小笠原とより一層相談してことにあたるように指示している。これからみてもこの動きは一連の工作下に行われたのではないかとも思われる。真田と小笠原、そして小笠原と石川が連携していたことは間違いないだろうし、その背後には秀吉の影が見えるようにも思えるのである。いずれにしても、真田昌幸にとっては、ありがたい事態ではあった。