創立20周年を迎へて所感を述ぶ

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          長野県木曾林学校長  岡 部 喜 平(注1)
木曾林学校の創立せられたる明治34年頃は林学教育の大本山たる農科大学林学科ですら、僅に十数名の学生しか居なかった時代であったから、長野県の木曽に郡立の山林学校が出来て林学士が校長になられたと聞いた時に、我々仲間は其が永続するであらうかと危ぶむだのである。
然るに幸にも健全に生長して、明治39年には県立となり、其後益々発展して既に600有余の卒業生を出し、此等の卒業生が帝国領土内到る所で盛んに活動せる結果、木曾山林の名は世に知れ渡り、今日では百名内外の生徒を募集しても容易に志望者を得らるゝ様になった。
扨(さて)全国を見渡すと、兎角(とかく)中等程度の林学教育ば不振であって、全国に林学科を併設せる農業学校は20位はあるが、何れも志望者の乏しきに苦しんで居る。かゝる中にありて我校が林学科丈で独立せることは大に誇りとする所である。
斯(か)く本校が盛大になったのは、田、江畑、安藤、七宮各校長始め先師諸君の一方ならぬ御努の賚(たまもの)であることは、言ふ迄もなきことである。
我校が盛大となるにつれ、他県から入学する者が年一年と増加し、それに卒業生は長野県に止まらずして、全国の官公署や民間会社抔(など)に就職する者が多い為め、或る一部には木曾林学校国立論が唱へらるゝ様になった。国立も結構であるが。唯私の憂ふる所は、国立々々と騒いで時勢に伴ふ改善施設が行はれなかったならば、何時の間にか時代後れとなりて、既往の輝ある歴史は次第に影が薄くなるのである。私は教育上何等経験なき身を以て
 
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昨年来校長の職を承(う)け、先任者の余沢に依りて僅に責を塞いで居る訳であるが、端なく創立20週年を迎へて我校の輝ある歴史を追憶するにつけ、之を記念すると共に時勢の進運に応じて大に発展を図らねば相済まぬことを考へたのである。それで卒業生諸君に御願ひ致した所、満腔の愛校心を発露せられ、記念事業を企てゝ下すつたことは感謝に堪へざる次第であります。
母校の現状に於て数千金の記念資金を得たことは、千軍万馬の援助を得た感じが致します。今の秋(とき:大切な時機)は徒に国立騒(こくりつさわぎ:注2)を為す時ではありません。我々は内にありて只管(ひたす)ら校風の発揚と内容の充実を計らなければなりません。校友諸君には外にありて奮闘して母校の声価を益々発揮して戴かねばなりません、内外一団となりて努したならば、既往の輝ある歴史は益々耀くでありましやう。かくて全国有為なる青年は風を望んで蘇門(そもん:注3)に集まるでありましやう。我校の位置は林業の研究には天下無類の地でありますから、追々母校に止(とど)まって研究せんとする者も出来ましやう。従て研究科も出来ましやう。研究科が発達すれば高等の専門科も出来ましやう、国立とか県立とか議諭して居る問に、演習林も立派になりましやう。益々演習林を拡張して置けば立派に独立の出来る時代も到来しましやう。我校の前途多望なる哉である。